【読売新聞】 日本国際問題研究所は1日、竹島が島根県に編入された1905年1月以降、初めて「竹島」と表記されたとみられる公的地図を確認したと発表した。旧海軍が同年4月に刊行した「日本近海水先図」で、研究所は、韓国側が竹島の領有権を巡
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NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する戦国時代の大名、浅井長政が、姉川の戦いで織田信長に敗れたあと京都の寺に送った文書が見つかりました。寺への支配を示す内容で、専門家は、「長政が敗れたあとも京都に影響力を残し、信長にとって脅威になっていたことを示す貴重な資料だ」と指摘しています。 この文書は京都市左京区の寺、勝林院で見つかり、近江の戦国大名、浅井長政の研究を続けている滋賀県長浜市の太田浩司学芸専門監が調べた結果、花押や内容から長政がこの寺に送った「安堵状」と判断されました。 安堵状は、幕府や領主が支配下にある寺院などに対し、領地を保証するために発行したもので、今回見つかった文書には「領地異議あるべからず候」と記されています。 この文書が書かれたのは西暦1570年にあたる元亀元年の11月で、長政はこの5か月前に姉川の戦いで織田信長と徳川家康の軍勢に敗れています。 中世の歴史に詳しい関西学
第2次世界大戦中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)について、戦後に日本政府が作成した公文書が6日までに、発見された。京都帝大などから派遣された医師らが人体実験を行ったとされる731部隊について、政府はこれまで国会で政府内に「活動詳細の資料は見当たらない」と答弁をしており、発見した西山勝夫滋賀医大名誉教授は「まだまだ731部隊に関係する資料が埋もれている可能性がある」と話している。 発見された公文書は戦後5年目の1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通…
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75年前の昭和19年に旧日本軍が初めて行った飛行機による体当たり攻撃、いわゆる「特攻」を受けて沈没したアメリカ海軍の空母をアメリカのチームがフィリピン海の海底で発見し、その映像を公開しました。 第二次世界大戦で沈没した艦船の調査を行っているアメリカの財団の調査チームは、ことし5月にフィリピン海の深さ4736メートルに沈んでいる「セント・ロー」を発見し、無人の調査艇で船体を撮影することに成功しました。 今月、公開された映像からは船体に施された迷彩の塗装や、刻印された文字がくっきり読み取れるほか、強い力を受けてひしゃげたとみられる飛行甲板が確認できます。 「セント・ロー」を沈没させたのは、関行男大尉率いる「敷島隊」だとされ、日本軍が組織的に行った初めての特攻と位置づけられています。 この作戦での戦果を受けて陸海軍は、特攻作戦を本格化させ、終戦までにおよそ4000人が戦死したとされています。 旧
ミッドウェー海戦で沈んだ空母「赤城」が発見されました。 拡大画像 旧日本海軍の空母「赤城」(画像:アメリカ海軍)。 ミッドウェー海戦で沈んだ、旧日本海軍の空母「赤城」と見られる沈没艦を発見したと、故ポール・アレン氏の調査チームが日本時間2019年10月21日(月)午後、Facebookにて公表しました。 同チームは18日(金)にも、同海域の海面下5400mに沈む空母「加賀」を確認したと、動画像と共にFacebook上で公表していました。「赤城」と見られるものは、「加賀」から約33km離れた場所で発見したといいます。 「赤城」は世界的にもまだ空母黎明期の時代、1927(昭和2)年に竣工しました。戦艦「長門」とともに人気を二分するなど、当時の国民に広く知られた艦です。1942(昭和17)年6月、アメリカ軍とのあいだで戦われたミッドウェー海戦にて沈没しました。同海戦で旧日本海軍はこのほか空母「蒼
飛鳥~奈良時代に一時的に都が置かれた難波宮跡(大阪市中央区)の発掘調査現場から、1939(昭和14)年に旧満州(現中国東北部)とモンゴルの国境付近で旧日本・満州国軍とソ連・モンゴル軍が武力衝突した「ノモンハン事件」に関する旧日本軍の機密資料が見つかっていたことが11日、分かった。終戦時に米軍の接収を免れるため焼却処分された燃え残りとみられ、文書には「『ノモンハン』血ノ教訓」などの記載もあった。事件から今年で80年。戦争遂行に際しノモンハンを教訓に戦略を立てようとした状況が分かる貴重な資料になりそうだ。 発掘調査は難波宮の遺構がある国立病院機構大阪医療センターの建て替え工事に伴い、大阪文化財研究所(現大阪市文化財協会)が平成28~29年に実施。同所には戦前、陸軍歩兵第三十七連隊の本部があり、戦時中に同連隊が使っていた防空壕(ぼうくうごう)も十数基発見された。 防空壕は深さ1~2メートルほど。
日本列島で文字が使われ始めた時期が大きくさかのぼるかもしれません。弥生時代や古墳時代の遺跡から発掘された石が調査の結果、「すずり」と判断される事例が九州北部を中心に相次ぎ、調査に当たった専門家は、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性があると指摘しています。 刃物などを研ぐ「砥石(といし)」と判断されていた石などを詳しく調べ直した結果、これまでにおよそ130点が「すずり」と判断されました。 ほぼ同じ時代の中国や朝鮮半島の遺跡から見つかったすずりと形が似ていることに加え、石のすり減り方が砥石と異なるほか、一部には墨とみられる黒い付着物が付いていたことなどから、「すずり」と判断したということです。 調査に当たっている弥生時代の専門家で、國學院大学の柳田康雄客員教授によりますと、「すずり」と判断した石は、九州北部を中心に西日本の各地に分布し、このうちの5点は弥生時代中期の紀元前100年ご
日本にキリスト教が伝わって間もない安土桃山時代に日本人の信徒、キリシタンが描いたとみられる宗教画が見つかりました。聖書のさまざまな場面が和紙に墨で描かれているほか、ラテン語の祈りの言葉も添えられていて、専門家は最も初期の信仰の様子を知る重要な発見だとしています。 和紙をつなぎ合わせた幅22センチ、長さ3メートル余りの巻物で、「受胎告知」や「聖霊の降臨」など、キリストと聖母マリアの生涯の15の場面が墨絵で描かれています。 かな文字で書かれた文章もあり、分析した結果、「聖体秘蹟の連とう」と呼ばれるラテン語の祈りの言葉を耳で聞き取って書き起こしたものと分かりました。 巻末には安土桃山時代にあたる「千五百九十二年」と書かれていて、和紙の成分の分析からも16世紀後半から17世紀前半のものと分かり、この年に描かれた可能性が高いということです。 この年はキリスト教が伝わってから40年しかたっておらず、日
14世紀中ごろの室町時代(南北朝時代)に描かれたとみられる、本州から九州のほぼ全域が記された日本地図がみつかった。広島県福山市の県立歴史博物館が15日発表した。現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるが、西日本が欠けており、全体が残った地図では最古級。日本地図の変遷をたどるうえで重要な発見と注目される。 博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託された。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町の
フィリピン沖の海底で、太平洋戦争中にアメリカ軍に撃沈された旧日本海軍の戦艦「山城」や「扶桑」などと見られる5隻の艦船が見つかったとアメリカの調査チームが発表しました。 それによりますと、発見されたのは、船体の形状などから昭和19年10月のレイテ沖の海戦でアメリカ軍に撃沈された戦艦「山城」や「扶桑」のほか駆逐艦の「満潮」と「朝雲」、それに「山雲」と見られるということです。 この調査チームは、おととし、フィリピン沖のシブヤン海の海底で戦艦「武蔵」を発見し、世界的に注目されました。 今回の海底調査は先月下旬から今月はじめにかけて行われたということで、チームのフェイスブックのページには、無人探査機で撮影した海底に沈む船体の写真などが順次公開されるということです。 今後、専門家などによる分析や検証が進むことが期待されます。 旧日本海軍の戦艦「山城」と「扶桑」は、同型艦で、全長およそ200メートル、幅
「大坂の陣」(1614~15年)前後など江戸時代初期の様子が記された文書が、オランダ・ハーグの国立文書館で見つかった。同国ライデン大学と共同調査している国際日本文化研究センター(日文研、京都市)が21日、発表した。既存の文献にない記述もあり、検証が進む可能性もありそうだ。 東インド会社の拠点だった長崎の平戸オランダ商館のオランダ人関係者らが1609~33年に作成した書簡524点や日記で、幕府高官や日本の商人らから聞き取った情報などを記したという。 夏の陣で大坂城が落城した直後の15年6月11日付の報告には次の記述がある。東インド会社の商務員ワウテルセンが平戸オランダ商館長に宛てたという。「皇帝(徳川家康)、その息子および全軍は、(豊臣)秀頼の城を攻囲するために6月2日に大坂へ出発し、同月3日に到着した。秀頼の数人の大名が赦免が得られると考え、皇帝側に寝返るために城に火をつけたが、彼らは逃げ
日本が作成した北朝鮮、平壌近郊の地図。(Photograph from Stanford University) 第二次世界大戦後、日本を支配下においた米軍は、日本の軍事機密となっていた地図とその原版を大量に接収し、米国に送っていた。その地図が近年発見され、注目を集めている。 日本軍の地図はアジアの多くの地域を網羅し、地形に加え、気候、輸送システム、現地の生活の情報が詳細に記されていた。こうした情報は侵略や占領の計画立案に使われたと思われ、一部には敵国に送り込まれたスパイが収集したものもある。 これらの地図は「外邦図」と呼ばれるもので、米国にとって諜報活動に役立つ貴重な資料となった。敗戦国の情報だけでなく、新たに台頭してきた敵、すなわちソビエト連邦の情報も含まれていたからだ。米国陸軍地図局は、こうした戦略上重要な資産を1カ所に保管しておくのは無謀と考えた。核攻撃でも受けようものなら、すべて
理化学研究所が合成した原子番号113番の元素が新元素と国際的に認定される見通しになったことが25日、関係者への取材で分かった。国際学術機関が来年1月にも決定し、日本が発見した初の新元素として理研に命名権を与える方向で最終調整している。発見を争ったロシアと米国の共同研究チームを退けて認定される見込みで、科学史に残る大きな成果となる。 元素は物質を構成する基本的な粒子である原子の種類のこと。未確定を含め118番まで見つかっており、米露などが国の威信をかけて発見を競ってきた。アジアによる新元素の発見は初めてになる。 新元素の名称と元素記号を提案する権利は発見チームに与えられる。113番の名称は日本にちなんだ「ジャポニウム」が有力とみられ、関係機関の承認を得て決定する。 92番のウランより重い元素は自然界に存在せず、人工的に合成して発見される。113番は理研と露米チームがともに発見を主張し、約10
秋田県大舘市の遺跡で、平安時代に起きた十和田火山の大噴火によって、火山灰に埋まった住居の屋根とみられる跡が見つかりました。立体的な屋根の形がそのまま見つかるのは非常に珍しく、当時の住宅の構造を知る貴重な資料として注目されています。 屋根は一部が欠けているものの「寄せ棟造り」という当時の建築様式の特徴が残されていて、立体的な状態で埋まっているとみられるということです。 この付近では1100年前の西暦915年に、十和田火山が大噴火したことが分かっていて、秋田県埋蔵文化財センターによりますと、このときの大量の火山灰で屋根が埋まったことで壊れずに残ったとみられるということです。 県埋蔵文化財センターの村上義直副主幹は「当時の屋根の形に近い状態で見つかったのは非常に珍しく価値がある。今後、さらに発掘が進めば、さまざまな面で注目されると思う」と話していました。 片貝家ノ下遺跡は今月14日と15日に一般
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