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批評に関するgauquiのブックマーク (1,197)

  • 「 “書評頻度分布” はココロの安らぎを保証する」 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

    ワタクシが書いたへのさまざまな書評や感想を並べてみると,必ず一つや二つは「ヘンなの(outlier)」が混じっている(とくにオンライン匿名書評には).書評頻度分布におけるそういう「outlier」は無視することにしている.単なる「外れ値」に思い悩むのは精神衛生上よろしくないからだ.書評の「外れ値」はそのまま放置するのがベスト.もちろん,有害な「外れ値」は積極的に叩いた方がいいのだが,たいていは聞き置くあるいは聞き流す.頻度分布の「端っこ」としての外れ値はどうしても出現するのでそれはもうしかたがない.ワタクシの場合,そういう「端っこ」は相手にしない. 「外れ値」の出現は制御できないが,「外れ値」への対処のしかたは主体的に決めることができる.書評ひとつひとつの発言や文章は言ってしまえばどうでもよくって,それら全体が形成するサンプル集団のもつ “書評頻度分布” の “平均” と “分散” が重

    「 “書評頻度分布” はココロの安らぎを保証する」 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek
  • 「匿名オンライン書評の読み方」 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

    匿名オンライン書評の読み方 —— とくにインターネットに流される匿名書評の場合(私信でもときどきあるけど),ほとんど「罵倒」のような感想文に出くわすことがある.著者によってはそうとう凹んでしまう方もいるようだが,それらの書評 を集積して確率分布(評価値を変量とする)を構築したとき「3σ」を外れた書評は無視してもかまわないと思う.誉め過ぎ/貶し過ぎの感想文は“外れ値(outlier)”だから放置しよう.要するに,ヘンなネット書評に悩まないためには「書評確率分布」をつくるしかないということだ.『分類思考の世界』の書評確率分布では文体嗜好で評価が割れる傾向が見られる.世の中には「2時間でべきれる流動みたいな新書」もたくさんあるので,拙著もそのつもりでまちがって口にしてしまったんでしょうね.研究者が一般向けのを書くときには,いつも同様の問題が浮上してくるはずだろう.そもそも流麗な文体でものが

    「匿名オンライン書評の読み方」 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek
  • 『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(2) | Living Well Is the Best Revenge

    引き続き東野芳明の美術批評選について論じる。前回は主にこの選集成立をめぐる形式的な側面について論じたが、今回は内容に関して検討を加える。書の構成は「生中継の批評精神」と題された編者の序言に続いて、1960年から72年にかけて東野が執筆した20余りのテクスト、インタビューをもとに構成された磯崎新の「反回想」、そして二人の編者による二つの論文がこの順に収められている。東野のテクストはほぼ発表順に収められており、行間から60年代の東野の八面六臂とも呼ぶべき活動が浮かび上がる。あらためて感じるのは東野が傍観者としてではなく当事者として美術のカッティング・エッジに立ち会う様子である。 ジョン・ケージの「演奏会」の模様から説き起こされた書には、東野自身も出演した草月会館での小野洋子の作品発表会、ブリヂストン・ホールでの「『反芸術』是か非か」公開討論会、「ヤング・セブン」に始まるいくつものギャラリ

    『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(2) | Living Well Is the Best Revenge
  • 『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(1) | Living Well Is the Best Revenge

    河出書房新社から『虚像の時代 東野芳明美術批評選』というアンソロジーが刊行された。私が現代美術に意識的に関わるようになった80年代には東野芳明はいわゆる御三家として針生一郎、中原祐介とともに美術界において圧倒的な権勢を誇っていた。私自身熱心に東野の著作、そして様々の媒体に発表される東野の時評を読み継いだことを覚えている。おそらく影響力という点では当時この三人の中でも最も大きかったのではなかろうか。しかし東野は90年代初めに病に倒れたこともあり、今日必ずしも十分にその重要性が認知されていない。今回、このレヴューを書くにあたって調べてみて驚いたのだが、今日、東野の著作は一般的な画集の解説といったさほど質的ではない仕事を除いて、新刊として入手することが困難である。東野に限らず、この国では現代美術に関する評論は刊行された際に入手しておかなければ時をおかずして絶版状態となり、参照することはかなり困

    『虚像の時代 東野芳明美術批評選』(1) | Living Well Is the Best Revenge
  • ICOMAG 2013「批評」のテーマから考えたこと/reflexion on the aim of ICOMAG 2013 | miki okubo

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●時期を逸してしまったような変なタイミングだし、それこそ余計な一丁噛みでしかなく、「風が吹けば桶屋が儲かる」展のトークも何も聞いてないし、下の議論の「文脈」を理解しているとはいえないから反応としてはまったく見当はずれなことを言っているかもしれない(そもそも下の話が風桶展に関するものだとはどこにも明示されていないし)ので、気が引ける感じなのだけど、比喩の使い方にやや気になるものを感じたので、自分の考えを整理するためにも、あくまで早とちりの無責任な放言としてちょっと書いてみる。下のリンク(togetter「芸術と日常の関係 - 「文脈を理解してから作品を批判しろ」というとき、その作品を批判する文脈については想定されていない」)を読んで考えたこと。 http://togetter.com/li/451963 こごでひっかかるのは、料理についての判断基準が、はじめから「うまい/まずい」しか想定され

    ■ - 偽日記@はてなブログ
  • 森美術館の回答についての雑感 - ohnosakiko’s blog

    会田誠展について - MORI ART MUSEUM 森美術館での会田誠展に抗議が起こった件について、先日、森美術館は美術館の観客である一般の人向けの文面を美術館サイトに出した。現代アート業界で一般向けの言葉としてよく使われている決まり文句に満ちた、可もなく不可もないまるで”水のような”文面だと私は感じた(作家のコメントもそれと同じく無難なもの)。 そしてここから、森美術館は抗議側と議論のテーブルにつくつもりはなく、この件はこの一般向けのコメントをもって終わりとする(したい)のだろうという印象を受けた。 だとしたら、実に変な感じである。 AがBに直接「こういうのは非常に問題だ。やめてほしい」と抗議したのに対して、BはAを無視し、見守っているであろう「みなさま」(あるいは「大文字の他者」)に宛てて、「なんかいろいろ意見が出てるけど、うちの方針はこうだからよろしく」と言っているのだ。変でしょ、

    森美術館の回答についての雑感 - ohnosakiko’s blog
  • 芸術と日常の関係 - 「文脈を理解してから作品を批判しろ」というとき、その作品を批判する文脈については想定されていない

    林 卓行 @tkyk_insensatez 仮に作品というものが、ある体験にもとづいて作られるものだとして。作品の特殊性が体験の特殊性を保証するものでないことは、体験の特殊性が作品の特殊性を保証するものでないのと同様。 2013-02-04 02:01:11 林 卓行 @tkyk_insensatez たとえば自分がおいしいとおもうものを、「これはおいしくない」というひとに、いいからなんどかたべてみて、ということはあるとおもうけれど、成分とか産地とか、料理人の経歴とかを理解してからもういちどたべてごらん、とはいわないとおもう。 2013-02-04 02:52:48

    芸術と日常の関係 - 「文脈を理解してから作品を批判しろ」というとき、その作品を批判する文脈については想定されていない
  • 「政治という笑劇」を欲望しているのは、いったい誰なのか?

    文部科学大臣の田中真紀子が、専門家による審議を経て来年4月の開学を予定されていた大学の認可を、突然取り消した。大学が増えすぎて質が低下した、そもそも設置認可のやり方を見直すべきだ、というような理由である。そもそも大学が増えたのは国が設置基準を緩和したからであるが、それをあえてまた見直すというのなら、来年度の申請からにすればよい。誰が考えても当たり前のことである。 わたしもこれまでの教員人生の中で、甲南大学文学の人間科学科(1995年)、情報科学芸術大学院大学(2001年)という、2回の大学設置申請を経験したが、それがどれほど多くの人々の、信じがたいほどの時間と労力を要する大変な仕事であるか、身にしみて経験している。やっと審議会により認可を経て開学準備を進めているこの11月の段階で、大臣の権限によりその認可を取り消すことは、ほとんど自殺者が出てもおかしくないくらいの暴挙であり、政治権力の濫用

  • 批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》 - Freezing Point

    永瀬恭一氏 「30年前を素材にする・日の70年代 展」 より: 埼玉県立近代美術館で「日の70年代」展が行われている。〔・・・〕 80年代に繋がる非政治的なものも、むしろその非政治性にこそ「カウンター」の意識が込められている この展覧会が示そうとした「カウンター」としての70年代は、80年代初期には既にメインストリーム化していたのであり、潜勢力の喪失は始まっていた いつしかカウンターではなくメインストリームとなっていった消費社会それ自体に対する未来の「カウンター」が必要になってきた この文章の、美術領域内での位置づけや射程は私には分かりませんが、 触発された自分の焦点をメモしてみます。 《集団的な批評の機能》 をどう組織する(される)か、マネジメントする(される)か。*1 《消費イメージに駆動される購買》 に、最高の批評ポジションを与えること。それは主観性や関係性の再生産において、70

    批評機能の膠着物(Gallerte)としての《価値》 - Freezing Point
  • http://www.seiryupub.co.jp/cinema/2012/10/post-55.html

  • ララビアータ:『小林秀雄論』 補論(その1) - livedoor Blog(ブログ)

    「さまざまの意匠」 小林秀雄が当時のプロレタリア文学の存在を深く意識していたことは明白である。彼は、その中にきわめて崇高なものと、あまりにも愚かしいものが混在していることに、批評家精神を刺激されたのだろう。愚かしさのみを見て、それに嘲笑の眼を向ける同僚文学者に対して、次のように警告する。 ――観念学[イデオロギー]を支持するものは、つねに理論ではなく人間の生活の意力であるかぎり、それは一つの現実である。ある現実に無関心でいることは許されるが、現実を嘲笑することは誰にも許されてはいない。(『さまざまなる意匠』新潮文庫版p−12)―― 「目的意識をもて」とか「時代意識をもて」といった、いかにも愚劣で素朴な主張に対する批判は、今の我々から見ればあまりにも当たり前すぎて新味に乏しい。 しかし、自足した「芸術のための芸術」は、実際は現実から見捨てられた芸術にすぎず、「己れが世に烈しく動かされているこ

  • ララビアータ:『小林秀雄論』 補論(その2) - livedoor Blog(ブログ)

    バルザックの『モデスト・ミニョン』 モデストは、高貴の血筋ながら、初めはル・アーヴルの破産すれすれのミニョン家の娘として登場する。以前自分を翻弄した金目当ての縁談話(それも、父の商売失敗でダメになる)と、家名を汚す姉のスキャンダルとそれに続く悲劇的な死とによって、若くして社会に対する思慮深い疑念と、(『セヴィリアの理髪師』のロジーナのように)家族たちからの厳重な監視とに守られて暮らしている少女は、文学にのみ、その魂の救いを求める。このあたりまでは、ドン・キホーテやエンマ・ボヴァリーの場合と同じ。 やがて、ワキの物語の中からシテが立ち現れるように、ロマンティックな物語の中から「理想の男性」が現れる。ドン・キホーテの場合なら、セルバンテスの小説が爆発的に売れた結果、『ドン・キホーテ』の海賊版が出版され、その中の偽ものドン・キホーテが、その後セルバンテス自身が急遽出版した『ドン・キホーテ続編』の

  • 映画・言説・フォーマリズム・イデオロギー

    土屋誠一 @seiichitsuchiya ちょっとまとめて映画を観ようと思い、ノーラン作品全然見てないので、まずは「ダークナイトライジング」を観たいのだが、その予習のために「ダークナイト」をひとまず購入したものの、「バットマンビギンズ」がその前作であるということを今更知るという罠。「ライジング」までたどり着けない……。 2012-08-28 12:24:56 土屋誠一 @seiichitsuchiya ノーラン作品を観ようと思ったきっかけは、明らかに先月の『ユリイカ』特集に触発されてなのだが、まずは全作品を見てから各論考を読もうと画策しているものの、こんなことでは特集号にたどり着けるのはいつになることやら……。 2012-08-28 12:33:53

    映画・言説・フォーマリズム・イデオロギー
  • ララビアータ:江藤淳の『小林秀雄論』について - livedoor Blog(ブログ)

    私は小林秀雄も江藤淳も、あまりまじめにフォローしているわけではないが、それでも初期の小林秀雄(『さまざまの意匠』『私小説論』など)には共感を持って親しんでいるので、江藤淳のこのも特に前半は興味深く読むことができた。自然な流れとして、自分の自由論や『ヨブ記』解釈のポイントを確認しながら読むことになった。以下は、その読書ノートである。 テクストの中に自己自身を見出すという形で主体を論じること、それが私の主体理解である。言語という象徴界への参入と臣従によって主体となるのである。その原型を反復する形で、宗教的主体は教典の中に自己自身を見出さねばならない。 それとの類比で言えば、スターリン主義的主体の場合、マルクスのテクストの中に割り振られたキャラクター(革命的プロレタリアートという役割)を引き受けるということになる。 その自己の内実は空疎であり、抽象理論によって規定されたものにすぎない。農村共同

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    カカオからチョコレート作ったレポ ごきげんよう!先日フリーテーマの全社プレゼンにてサロンデュショコラをテーマにしてそこそこ好評を得ると同時にうっすらやべえ奴感を植え付けることに成功したオタクです。 さて、先日、同僚に「チョコレートを作ったりはしないんですか?」と聞かれまして。 ご人…

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  • 坂部 三樹郎 × 蘆田 裕史 “ファッションとファッション批評” 1/5 | changefashion.net

    MIKIO SAKABEの坂部 三樹郎氏と蘆田 裕史氏による対談 が5月下旬に行われた。 蘆田は現在熊市現代美術館で開催中の「ファッション―時代を着る」展を共催している京都服飾文化研究財団(KCI)に勤務、また坂部は同展覧会の出品作家である。 蘆田は自身のブログにて「批評という行為はある作品の評価を言語化すること。批評を書くことはデザイナーが生き残る道を作っていくことにもつながる」と綴っている。今対談ではファッション批評の話題を中心に坂部と蘆田、批評される側とする側、双方の目線で話が展開されている。 ファッションに批評は必要なのだろうか。ファッションにおける批評の可能性とは・・・・ ——————————————————————————————————————————————- 蘆田 裕史(以下A):今回のMIKIO SAKABEのコレクションに関してChangefashionの企画で様々

  • ネクスト・ステップ | 20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から

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  • 1998年(平成10年) | 20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から

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    1998年(平成10年) | 20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
    gauqui
    gauqui 2012/08/03
    椹木野衣氏の資質は文芸批評家なのではないかっておもしろい
  • 往復書簡「ライトノベルと児童文学のあわい」時海結以・くぼひでき

    2004/05/16(Sun) 01:29 久美さま、はじめまして。 『創世記』、とてもおもしろく読みました。続きを期待してますです。 読んでいてすごく懐かしくて嬉しくなりました。 70年生まれのわたしに氷室さんを勧めてくれたのは、高校のときの彼女なんですよ。それで一気に読んだんです。古典の参考書にはコバルトで出た『ヤマトタケル』が一番役に立ちました。 久美さまのは、やはり同じ頃におかみきを読んだんです。めるへんめーかーさんの絵がうれしかったんです。というのも、それに先立って中学生のとき、ハヤカワFTで出たライトソンのウィラン・サーガがわたしのバイブルだったからです(今でも大好き)。 以来、ずっと文筆をこころざして、それでFT好きもこうじて、児童文学のほうに足をつっこんでおります。 んや。長くなりました。 なんか嬉しくなってカキコしてみました。ではでは くみにゃ2004/05/16(Su

    gauqui
    gauqui 2012/07/23
    児童文学まったく分からないけどこういうところから掘っていけそう