ファンにとって嬉しい小ネタの数々が、カットが変わるたび押し寄せてくるような作品で、劇場ではつねにニヤつきっぱなしだった。ゲームで耳にする楽曲も新旧問わず特徴的に使われており、そのアレンジも最高だ。映像としてとても楽しいものに仕上がっており、マリオのIPが持つギミック、世界観を存分に活かしきっている。こういった目に楽しい映像作りを長年続けてきたイルミネーションとマリオとのコラボレーションは大正解だったと言えるだろう。 この映画の制作にあたって、「マリオ」の生みの親である宮本茂は「ゲームが好きな人を裏切らない」こと、そして「ゲームを知らない人も楽しめる」ことを意識したと語っている。たしかに「ゲームが好きな人を裏切らない」ことには成功していそうだ。実際に本作を見た多くの「マリオ」ファンは、筆者を含めて存分に楽しんだだろう。しかし、後者についてはどうなのだろうか? この映画を「ゲームを知らない人も
カービィは不思議な生き物だ。誰もが見れば頷くことだろう。飛んで跳ねて、吸い込んでコピーする。摩訶不思議なピンク色のわかものが、カービィなる存在である。それゆえに、カービィを中心として展開する物語もまた、おとぎ話のようにファンシーなストーリーであると認識しているユーザーも多いことだろう。 しかし、実はカービィをめぐる物語は、一筋縄ではいかない。『星のカービィ』(以下、カービィ)シリーズで語られる筋書きは、時代により変化し、そのときどきでまったく異なる表情を見せてきた。とりわけ、初代『星のカービィ』を手がけた桜井政博氏が描いた『カービィ』を考えると、現代における『カービィ』シリーズのストーリーテリングはまったく様変わりしたといえる。 そこで本稿では、3月25日に来たる『星のカービィ ディスカバリー』を前に、ここ10年の『カービィ』におけるナラティブを振り返ってみたい。過去と現在を踏まえて見えて
日本人は外国に長く住んでも必ず帰国する、みたいな話を何かの折に読んだが、 まあ、実際には旅先で帰化して日本に帰らない人というのも普通にいるわけだし、「華僑などと比べるとそういう傾向が強い」というだけの話ではあるのだろう。 ただ、実在の人物であれ物語上のキャラであれ、「帰れなかったキャラ」というのは、一種の悲哀や寂寞の念があって印象深い。 実在の人物だと、阿倍仲麻呂(帰国しようとしたけど嵐でベトナムに漂着)とか、大黒屋光太夫の仲間の新蔵や庄蔵(正教に改宗していたので、帰国不可)。 物語上のキャラだと(あ、古い作品だけど一応ネタバレ注意ね)漂流教室の主人公とか、エデンの檻のキャラとか、今そこにいる僕のサラとか、ドラクエ3の主人公とか。 逆に、帰れなかったキャラがいるなかで、かろうじて帰れたキャラというのもそれはそれで味わい深い。 漂流教室のユウちゃんとか、今そこにいる僕の主人公とか。初代ペルソ
オープンワールドの「自由」ってなんだ? そして、『サイバーパンク2077』と『Ghost of Tsushima』の不自由さはどこから来るのか 『The Elder Scrolls IV: Oblivion』(2006)画像はSteamより いまや多くのAAAタイトルがオープンワールドというゲームシステムを採用しており、もはや当たり前の存在になったといえる。そんなオープンワールドの魅力といえば、やはり「自由」だ。チュートリアルさえ終えればあとは世界のどこへでも自由に行ける。かつてのゲームは限られた空間しか描けなかったのもあって、画面のなかに広い世界があるのはとてつもない魅力を持つのだ。 しかし、 『Ghost of Tsushima』と『サイバーパンク2077』を遊んだ私は意外な経験をした。この2作品はオープンワールドを採用しているが、むしろ自由ではないように見える。なぜそう感じてしまうの
趣味で小説を書いているのだが、現代を舞台にした物語で日常を描いているときに、えーと…と一瞬悩んでしまうことがあって、それはコロナ禍をどう扱うかということだ。正確に言うと、コロナウィルスの影響で変わった日常の風景をどう描写するか、ということ。 例えばキャラクター同士がどこかで会食をする場面を描こうとするとき、実情に即して描写しようとすると、それが2020年以降の現代である限り、何かを口にするときはマスクを外す、さらに、衛生に慎重な人物ならばその都度マスクをつけ直す、というのがリアルな風景になる。 特に、「単なる普通の飲み会」ってのやつは、もう描くのが難しそうだな、と思う。現代を舞台にしている限り、複数人が集まって(5人以上? ですか?)、呑気に酒を飲んで食べて…というのは、リアルでは、もはや当たり前に許される風景ではなくなってしまった。 飲み会の様子を何も考えずに書くと、自動的に、意識の低い
どうしたら『鬼滅の刃』の連載は続くのか? ジャンプ本誌でクライマックスを迎えようとしていた2020年の春頃は、ネット上でそんな妄想やネタがよく繰り広げられていた。 特に比較されやすかったのが、「吸血鬼(鬼)退治」や呼吸法など、多くの共通点の見付かる『ジョジョの奇妙な冒険』の第1~2部だった。確かに「ボスキャラ交代」や「主人公交代」を利用した作品寿命の延長は、『DRAGON BALL』と並んで少年漫画の王道であるようにも思える。 主人公と敵勢力の交代が行われた『ジョジョの奇妙な冒険』5巻 連載中は「鬼舞辻無惨がラスボスで終了」なのかすら読者には判断不可能だったが、結果として2020年5月に最終話が掲載。ジャンプ漫画としては完結するのが早かった……というイメージが独り歩きしがちかもしれないが、ちょうど23巻で大団円を迎えたジャンプ作品なら『封神演義』(96年~)や『ヒカルの碁』(99年~)、『
『イモータルズ フィニクス ライジング』をユービーアイソフトにて3時間ほど試遊させてもらい、すぐに思ったのは「ユービーアイがまたオープンワールドで新しいチャレンジをした」ということだった。 本作はいわゆる「壁となるような障害物がなく、どこまでも進める」、「登場人物が次に何をすればいいか説明しすぎない」、「スタミナ制で壁を登ったり、素材を集めたりしながら進む」という、いまさまざまなメーカーが追求しているオープンワールドの潮流のひとつだ。 そこで本作がチャレンジをしたと感じたのは “物語のデザイン”である。ギリシャ神話を題材としているし、ちょっと堅苦しく聞こえるかもしれないが、むしろ逆で笑えるのだ。プレイヤーを笑わせながら、ひねった構造を実現しているのである。 一体それはどういうことか。一言で書けば “神々による漫才の世界を旅するオープンワールド”なのである。いや、これでも何のことかわからない
斜線堂有紀 @syasendou 面白いものを創ります。最新刊「プロジェクト・モリアーティ」が4月19日に発売です。「ゴールデンタイムの消費期限」「回樹」「本の背骨が最後に残る」/脚本→@lovecobralove note.mu/syasendou @impure_stories instagram.com/syasendou_you_… 斜線堂有紀 @syasendou 本を全然読まないタイプの弟に「殺人事件起こったけど特に犯人とかいなくて全部宇宙人の仕業でしたみたいな可能性を無視出来るのは何で? あと登場人物の行動に全部意味があって無の行動がないのは何で?」って言われてウワーーーーーッになった 2020-11-08 19:39:40
『ドラクエⅪ』をプレイしていて、こんなことを考えたことがある。 「この人(勇者)はなんでこんなに崇拝されていたのだっけ?」と。このような、フィクションに対する一見ばかばかしい疑問に、結果的に応答を示した形で生まれた名作が存在する。それは『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』だ。 同作は当時ファミコンで発売されたゲームソフト『ドラゴンクエストⅣ 導かれし者たち』(1990年)のタイアップ企画として、1989年に「週刊少年ジャンプ」で連載が始まった。おおめだまやテラノバットといった『Ⅳ』のモンスターが登場したり、主人公の出生の秘密を知る占い師が登場したりと、ゲーム版の設定を織り交ぜながらも、オリジナルストーリーの「ドラクエ」としてできあがった作品だ。当時の「ジャンプ」のアンケートでは『ドラゴンボール』に次ぐ人気を博していたと、原作者の三条陸は述べている(三条陸 緊急インタビュー!!「『ダイの大冒険
末次由紀 @yuyu2000_0908 いつかディズニーが「かぐや姫」に気がついちゃって、まるっきりハッピーエンドになっちゃうかぐや姫を世界中に広めてそれがスタンダードになっちゃったらどうしようとずっと恐れてたんだけど、高畑勲監督が「かぐや姫の物語」作ってくれて、難を逃れたことにホッとしたことを思い出した。いきなり。 2020-09-11 01:32:58 リンク Wikipedia かぐや姫の物語 『かぐや姫の物語』(かぐやひめのものがたり)は、『竹取物語』を原作としたスタジオジブリ制作の日本のアニメーション映画。監督は高畑勲が務めた。2013年11月23日に公開された。キャッチコピーは「姫の犯した罪と罰」。 高畑による監督作品は1999年の『ホーホケキョ となりの山田くん』以来、14年ぶりとなる。 高畑は本作公開から4年半後の2018年4月5日に死去し、本作が最後の監督作品となった。
「幻想水滸伝」を覚えているだろうか。1995年に初代PlayStationでスタートしたこのシリーズは、筆者の最も大好きなRPGのひとつだ。3つの戦闘システムを取り入れた意欲的なゲームデザイン、108人の仲間を集める膨大なやり込み、東洋と西洋の世界観を融合したような中世ファンタジー、今聴いてもつい鳥肌が立ったり物哀しい気分に浸ったりする音楽など、本シリーズは様々な魅力にあふれている。個人的には最初の2作の美しいドット絵も忘れがたい。だが、本シリーズが今なお世界中のファンによって語り継がれる一番の理由は、感動的なストーリーにあるのではないだろうか。 『幻想水滸伝II』の主人公。 筆者は、「幻想水滸伝」シリーズの生みの親である村山吉隆が手掛けた最初の3作におけるストーリーテリングが特に素晴らしいと感じており、『幻想水滸伝II』がその完成形としてゲームの歴史に残るべき作品だと思っている。 家族や
『100日後に死ぬワニ』が完結した。本編自体は割と楽しく読んでいて、ラストもよい終わりかただったなと思っていたのだが、その直後に発表された怒涛のグッズ展開を見て完全に覚め、配偶者が「家の空気が汚れるから黙れ」と怒りだすくらいの大批判を繰り広げてしまうこととなった。 ということで昨日からブクマにやさぐれたコメントを投下していたのだけど、一方で「コンテンツで儲けるのの何が悪いんだ」的な話も出てきている。増田でも当選していた。 anond.hatelabo.jp せっかくご指名いただいたので、何が気に食わないかを以下に書く。 死を利用して金儲けをする浅ましさ のっけから例え話で危なっかしい限りだけども、例えばずっと見てきた猫のブログがあり、その猫の名前がミーちゃんだとして、ある日その子が死んだとする。こちらは哀しみにくれて、いままで読者として積み重ねてきた記憶を振り返り、猫の冥福を祈り、その死を
これらの記事の「続報」です ある作品を「映画」、キャラは「俳優」と仮定したパロディや二次創作は結構多いそうだ(続報)。 - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160826/p2 シン・ゴジラ「巨災対」関連パロ見て「(日常を描く)二次創作」にされやすい作品とは?を考えた/「ヘルシングは、実は映画。俳優の素顔は…」というパロがある - http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20160825/p2 上の話の要約…というか抜粋。こういうテーマ 「この作品は実は映画なんです。撮影の合い間の、登場するスターの素顔」 というパロディが秀逸なのは、どんな二次創作でも、よほど設定を考えないと、憎みあっている仇敵同志が仲良くしたり、不幸な登場人物がニコニコ幸せそうだったり、時代や場所的に会えない登場人物同士を合わせるなんてのは難しい(そうでもないのかなあ?)
—— 女が二人。 彼女たちの関係は、いずれ消えゆくまぼろし、または憎しみ、はたまたセンセーショナルでキュートな百合に終始するのだろうか。この後語られる予定の、ストーリーの主軸のための布石として処理され続けるのだろうか。二人の人生は、そんなイージーな枠に収まりきるだろうか。ボーイ・ミーツ・ガールでシーンは動く。では、ガール・ミーツ・ガールでは? 彼女たちの繋がりによってもたらされる物語を辿り、エンドロールを追いかけてみたいと思う。 ※ストーリーのネタバレを含みます。 「推し」とは自分が最も贔屓にし、応援しているアイドルやキャラクター、その他あらゆるものを指す言葉である。1990年代頃から主に女性アイドルのジャンルで使われ、今ではオタクと呼ばれる人々だけでなく一般にも広く浸透している。 「推し」ているアイドルや俳優と握手できることは多々あっても、通常、交際や結婚が実現する可能性は限りなく低い。
ドラえもん映画のなかでも怖いシーンが多いと言われる魔界大冒険 その中でも群を抜いてトラウマなのがメデューサ 「石にされてしまう恐怖」ってのももちろんトラウマなんだけど、あいつの本質的に一番怖いところって、「読者が無意識のうちに絶対安全と思い込んでるエリアに侵入してくる絶望感」だと思う 「魔法世界でタイムマシーンを持ってるのはドラえもんだけ。だからタイムマシーンで過去の世界に逃げれば絶対安全」という読者の思い込みに対して、まさかの時空間移動をやってのけるメデューサ。 平和の象徴のはずだったのび太の部屋、その机の引き出しからメデューサが登場するあの絶望感は、今でも思い出してもゾクゾクする大好きなシーン。 エヴァで、ネルフ本部にサキエルが侵入するシーンも同じ理由で大好き。 ほかに「安全なはずの手段が無効化される絶望感」が味わえるおすすめシーンあったら教えて。
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