今回は番外編として、「女の子と友達になれるのは誰か」というテーマで書きたいと思います。 これまでこの連載シリーズでは、「女性は見られる用の存在であるべき」とする「見られる用文化」がこの社会に存在している、という話をしてきました。 生まれて「女の子」と呼ばれた瞬間から、人としてではなく「女」として扱われる瞬間が、折にふれ訪れます。 物心つくかという頃から、「女の子は人目を気にするべき」と教えられると同時に、「人目を気にしている」ことを「やっぱり女だ」「女は面倒くさい」と揶揄され、蔑まれて育ちます。 こういう幼少の記憶は、「女性として生まれ、育てられた人」にしかないものでしょう。 Twitterの議論に関して今回「女の子の友達になれるのは誰か」という番外編を書こうと思ったのは、現在Twitterで、「女性専用の場所にトランスジェンダーの女性が入ること」について話題になっているからです。 議論の
そろそろつらい。友人は少なくコミュ力はない。仕事もキャリア積めるような職種ではなく給料も少ない。そもそも能力がない。 趣味はBLと二次創作を読んだり買うことで、自分自身には創作能力はない。 顔はブスなのでそうそうに恋愛市場に足を踏む入れることに挫折して未だ処女だ。まず恋って感情を人に抱いたことがない。 今更そういうことがしたいとも思ってはいないのでそれはそれでいいのだが、無駄に年齢だけ重ねていくのがたまに無性につらくなる。 何も生み出さずただひたすら時間と金を消費していく毎日。人生がすっかすかだ。 自分の年齢は他人より10年ほど差があるように思う。自分自身で思う自分の年齢は28歳だ。 たとえば性別が生物学的な性別と自己認識の性別で乖離することが性同一性障害なら年齢が乖離してる自分は年齢同一性障害なのだと思う。 38歳のおばさんだからやるべきこと知っておくべきこと対応できなきゃいけない社会的
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