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日本哲学の最高峰には世界がどう映っていたのか…私たちの人生がガラリと変わる「昼の見方」というヒント(藤田正勝)
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日本哲学の最高峰には世界がどう映っていたのか…私たちの人生がガラリと変わる「昼の見方」というヒント(藤田正勝)
「昼の見方」とは何か しかし、そのような仕方で外部の世界と内部の世界を対置するのはおかしいのではな... 「昼の見方」とは何か しかし、そのような仕方で外部の世界と内部の世界を対置するのはおかしいのではないか、という考えが西田にはあったと考えられる。西田が『善の研究』改版の序のなかで、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というグスタフ・フェヒナーのことばを引用したことも、そのことを示している。 「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方」というのは外部の客観的な世界と内部の主観的で派生的な世界とを対置し、前者こそが真実の世界であるとする立場に浮かび上がってくる光景である。それに対して「ありの儘が真である昼の見方」というのは、「純粋経験」の立場に映る風光を指す。 たとえば美しい花を見たとき、私たちはそれを単なる原子の集まりとして「純物体」的に見ているのではなく、──西田の表現で言うと──「生々たる色と形とを具えた」ものとして見ている。それは単なる知覚の