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コーヒー沼
note.com/kaien
すでに人類が滅亡しかけた近未来から物語を始め、七つの短編を通して人類衰退の由縁を探っていく「箱物語」的に卓抜な構成、全編にただよう人間と人類に対するアイロニカルな視点、いずれも山本弘らしさ全開だ。 しかし、このAmazonでも非常に評価が高い『アイの物語』、あまり指摘されないのだが、非常に問題含みの作品でもある。 面白く読めることは間違いないものの、内容的に、そしてまた思想的に、どうにも受け入れがたいものがあるのである。 特に山本弘作品を続けて読んでいると、そこにあまりにも赤裸々に作者の思想が開陳されていることがわかって辟易させられる一面がある。 そう思っていたのはぼくだけではないらしく、きのう読んだやはり山本さんへの追悼の記事が、その『アイの物語』を取り上げてかなり手きびしく批判していた。 ぼくはここまで辛辣にいい切ってしまうつもりはないが、この記事に書かれてあることにはほぼ全面的に賛成
【訃報】 去る3月29日午前10時12分 山本弘は誤嚥性肺炎のため永眠いたしました 葬儀につきましては近親者のみで執り行いました 生前中のご厚誼に深く感謝申し上げると共に 謹んでお知らせいたします pic.twitter.com/ZIY5YLI00T — 山本弘 『BIS ビブリオバトル部』 (@hirorin0015) April 4, 2024 山本弘さんが亡くなられた。 といっても、もちろんご存知ない方もいらっしゃることだろう。 そういう人のなかにも「トンデモ本」という概念を生み出したあの「と学会」の初代会長といえば、「ああ」と思いあたる方もいるかもしれない(この記事の公開後、「トンデモ」はと学会の創始ではないというご指摘を受けました。謹んでお詫びし訂正いたします)。 じっさいには、かれの功績はそこに留まるものではなく、あるときは凄腕SF作家、あるときは良く喋るゲームマスター、あると
昨日、「宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き。」と題する記事を書いた。 https://note.com/kaien/n/n60f311211017 これが、意外にというか、非常に好評だったようで、現時点で600以上の「スキ」を獲得している。 ぼくとしてはわりと常識的というか、いってしまえば基礎的な内容に留めた記事だったのでいくらか意外に思うと同時に、「そうか、この種の記事の必要性があるのか」といまさらながらに気づかされた。 ぼくのようなオタクの考えることは時とともにどうしても専門的に、マニアックになっていく傾向がある。 その際、一度語ったことはいわば「常識」とみなして「その先」を語りたいという欲求が強い。 しかし、あまりにあたりまえのことだが、いくらぼくが「常識」とみなしていても読者にはまったく共有されていない知識がほとんどなのである。 ごく少数
宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』を理解できなかった人のためのネタバレ謎解き。+おまけ記事30000文字。 1000スキありがとうございます! さらに調子に乗っておまけとして有料文章30000文字を追加してみました。有料ではありますが、宣伝ツイートをRTしていただくと無料で読めます。くわしくは↓の有料個所から飛んでください。無料でもぜんぜんかまわないので、ぜひ読んでみてください。よろしくお願いします。 昨日、宮崎駿監督の『風立ちぬ』以来、10年ぶりの新作映画『君たちはどう生きるか』が公開されたので、ひとりのアニメファンとして当然ながら初日初回で見てきた。 個人的にはリッチなアニメーションと幻想的なストーリーテリングを楽しんだが、予想通りというかいつものことというか、ネットでは賛否両論である。 それ自体はおおよそ想像できた展開ではあるのだが、予想外だったのは「ストーリーがわからない」という
『リコリス・リコイル』はドストエフスキーの児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ! ども、皆さん、アニメ『リコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときにリアルタイムで見る作品としては破格に面白い。 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏なもの」を
こんな記事を読んだ。 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83647 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83706 「「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来」(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81647)の続編で、「映像作品の観客が幼稚になってきている。あるいは、幼稚な観客の感想がネットによって可視化され、それが作品にフィードバックされた結果、作品もまた説明過多の幼稚なものになって来ている」という趣旨である。 一読、なるほど、と思わせられる。たしかに、テレビ番組などは「説明過多」の傾向があるし、そこから論理的に考えるとそういう結論が出て来る。いや、まったくいまどきの映像作品は幼稚かつ低俗で困ったものだ……。 うん? ちょっと待て。ほんとうにそうだろうか?
町山智浩さんの佐々木俊尚さんに対する中傷が止まらない。かれはTwitterでこのように発言している。 安倍政権に対する批判のなかで病気などを揶揄したものはほんのわずかで、大部分は政策批判です。しかし、佐々木俊尚はわずかな病気揶揄だけを取り上げて、政権批判があたかも誹謗中傷ばかりであるように印象操作してるんですよ。そんなの読めばわかるでしょう。 https://twitter.com/TomoMachi/status/1277423493785587712 数々の無責任や政策や人事、改竄、公選法違反などで現政権が批判されているのに、「悪口はエンターテイメント」などと決めつけて、政権批判をネットの誹謗中傷へと矮小化をはかる、佐々木俊尚のいつものステルス・ファシストしぐさ。 https://twitter.com/TomoMachi/status/1277296817328123904 現代社会
「「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち」という記事を読みました(https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/nihonnokehai-1?utm_term=.txMZY2YZZ#.lyJxW1Wxx)。 なかなか興味深い記事だったので、偉そうに批評的に見て行きたいと思います。 まず、この記事のなかで問題として取り上げられているのは「怒り」と「冷笑」の問題です。 正当な「怒り」の声があるにもかかわらず、そのうえの次元に立ち「怒り」そのものを見下す「冷笑」的な態度を取る人がいて、それが「空気」として日本を支配しているという問題が、いくつかの例を通して語られています。それはたとえば、これや、 数日前、加計学園の一連の問題を巡って党首討論がありましたが、朝日新聞は「議論は平行線」という見出しをつけていました。 中継動画を見た
ある誘拐犯罪を描いたマンガ『幸色のワンルーム』ドラマ化について批判が湧き上がっているので、ぼくの意見をなるべくわかりやすくQ&Aの形式で記してみました。ご参考になれば幸いです。 ・『幸色のワンルーム』って犯罪を美化した内容なんでしょ? 大丈夫? 犯罪者を格好よく、美しく描き、「犯罪を美化した」と受け取れるフィクションはいくらでもあります。『ルパン三世』とか『DEATH NOTE』などが有名です。 最近では是枝監督の『万引き家族』も話題になっています。『幸色のワンルーム』を否定するなら、これらの作品を否定しなければならないのではないでしょうか。 実質的に犯罪を扱った創作はほとんど不可能になるかと思います。 たとえば、いじめは自殺者も出している深刻な犯罪ですが、『ドラえもん』はジャイアンとのび太を仲良く描くことによって、ジャイアンによる暴力を美化しているということはできるでしょう。 それでは、
映画評論家の町山智浩さんの『万引き家族』評が話題を呼んでいます。それについてはここ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar1578982)でも書きましたが、もういちど、べつの視点から語ってみることにしたいと思います。 まず、町山さんの言葉を引用しましょう。 (町山智浩)スーパーでほんの少し、家族全員が食べるご飯をとっているだけなんですよ。それで「万引きなんかしやがって! 万引きなんか犯罪じゃないか!」って……ちょっと待て。彼らは働いていてもご飯が食べられなくて、わずかな食べ物がほしくて万引きをしているんですよ。この映画の中でね。 https://miyearnzzlabo.com/archives/50733 しかし、この映画を見た人ならわかる通り、これは端的に間違いなのではないかと思うのです。 第一に、「彼ら」はたしかに貧困ではあるもの
Twitterで「私はエビデンス問題」ともいうべき議論が発生しています。一部のフェミニスト(を自任する人々)が「私がエビデンス」を意味するエビの絵文字を名前に付けたことから始まった話題です。この問題について切り分けしていきたいと思います。 エビデンスとは証拠、根拠、証言などを意味する言葉で、日本では主にアカデミズムの世界で使用されます。それでは、「私」はそのような意味での「エビデンス」になりえるのでしょうか? なることもある、というのがぼくの立場です。たとえば、「わたしはフェミニズムに救われた」という主張は「フェミニズムに救われる女性は皆無ではない」ということのエビデンスにはなります。 ここまでは多くの人に納得してもらえる話でしょう。問題は「エビデンスにならない場合」を「なる」と主張している人がいるかどうかです。ぼくは、いると考えています。たとえば、このような意見です。 女性が、自分自身が
映画『万引き家族』を先行上映で見て来ました。ネット上で(まだ公開前でほぼ作品を見れない状況であるにもかかわらず)賛否がかまびすしかったのでどうなのかなあと思っていたのですが、なるほど、これはまあ傑作かと。 少なくともいままで見たことがある是枝監督の映画のなかではいちばん良い。 ほんのささいなきっかけから家族を構成するにいたった人間たちそれぞれの愛情、優しさ、だらしなさ、薄汚さが見事に描けていて、非常に感動的。 いっしょに見に行った友人は「自分の実家そのままで苦しかった」といっていましたけれど、まあ、そう思う人もいるだろうな、と思うくらいリアルな作り込み。 日本の貧困家庭のひとつの形を見せられたように思いました。ただ、この作品に関して「万引きせざるを得ないほど追いつめられた貧困家庭を描いている」という認識の意見が散見されますが、これは端的に事実ではないと思います。 いや、そこまでどうしようも
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