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コーヒー沼
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今日考えていたこと。 ・大卒差別はあったろうし、それも相当各地で根強くあったに違いない。Fラン大がどうとか現在言われてはいるが、大学出た方が有利だからなんとか行かせたいという要望はその当時かなりあったに違いない。そして増えた大卒と、同い年でありながら先輩である人らとの軋轢(あつれき)。そしてさらに氷河期世代問題もある。それは差別ではないのではなく、差別というくくりで問題にしたくなかったのだが、実質的には差別だったというそういう状態はかなりあったのではないだろうか。特に「東大は使えない、勉強はできても仕事はできない」という一種の常識みたいなものがあったのも大きいだろう。東大卒を筆頭にして大卒は使えないものだという常識というのはかなりのものがあったのではないだろうかと思っている。 これは恐らく特に今もそこまで大きく変わっていないのでは。 ・だがそうした差別問題を考慮しても、結果を残して来なかっ
この世において大切なものは何か? それは恐らく本来金ではない。 人と人との関係性、それさえあれば多少の金くらいはなんとかなるものだ…という錯覚は大なり小なりあった気がする。 ・まず第一の愚かとして、金は関係性より重いと見切るというその立ち回りを非常に賢いと思った、ということが最も愚かだったのはいうまでもない。なぜそれをできるかといえば、人は基本的に愚かな生き物であり、時間が経てば起きたことすら忘れてしまうと。バカだから。となると騙してしのいで時間稼ぎをすれば自ずと許される。それを見切っているオレは賢いという前提があり、それを前提とした立ち居振る舞いがあった、しかし実際にはそのやり口や手口を周囲に知らしめた、いやそれ以上にそうした諸々を含めた内心を全て明らかにした。とてつもない悪意と、そしてすべてを舐め腐った態度がすべて明らかになり築いてきた信用を全て失った、しかし数値的に把握できない信用が
ふとなんか昔のことを思い出した。 といってもそんないいものは全くなく、全く苦々しいことばかりだったなあということなんだが。 とりあえず一曲 https://www.youtube.com/watch?v=YpthnoR6XLQ どっかのラジオで20年くらい前に流れていた気がする。 音質悪いが現状これしか上がってないようだから仕方ない。 ・流れはあるし、本当に悪い流れってのも確かにある。ドミノが思わぬ方向に倒れて、あ、こりゃまずい、なんとかしようと思う、思うもののなんとかしようと思うことが新たなマイナスへ、マイナスがマイナスを生み、そのマイナスがさらなるマイナスへと繋がる。 思えばそういう悪戦苦闘ってのを常々意識してたし、10代の終わり頃はそれを漠然と意識してたし、だからこそなんとかして流れを食い止めなければという危機感はあった。 そういうものをズルズルズルズルと引きずってここまできてしまっ
今日ふと思ったのが、 「日清日露戦争において日本軍には大量の脚気患者が発生した」ということ。これ関連で、陸軍では森鷗外を筆頭に伝染病説が主流であり、実際にはビタミンB1欠乏が原因だったんだが当時はわからなかった、そのため対応が後手後手に回り被害を大きく拡大したという話がある。そして海軍ではたまたま玄米か何かを食べさせたら良くなったと。ただ明確な根拠はなかったようではあるが。 ・ということは脚気の日本史を紐解いてみるとおもしろいのではと。 そういうことで脚気は江戸時代には流行らなかったのではと思ってみると、実際にはけっこう流行っていたようである。年貢といえば米、米といえば白米。白米を食べることが普通になった江戸時代にはけっこうちょくちょく流行ったのが脚気だった。田舎の農民も年貢で取られはするが都市にでれば白米をたくさん食べられる、というので都市で脚気によくなっていた。 じゃあ農民は田舎で脚気
モンキーターンというこの話自体、常々いかに勝つかが問われており、勝つためになんでもしていいのか、それとも節度を持つべきかが問われている……まあ要するに具体的にはダンプってこれは一体どうなのか?ということが常々問われている。勝つためとはいえ、他人や自分を危険に晒すってのはどうなのか?ということである。 ・小池さんという人は波多野の師匠だが、この人はかつて有望と言われた弟子の艇に乗り上げて怪我をさせ、引退に追い込んでしまった過去がある。その罪悪感と負い目がこの人の人生に暗い影を落としたのは間違いないし、それでも引退することなく競艇をし続けることを小池は選んだ。 つまり誰一人もう責める人はいなくても、みんなが忘れても、延々己を責め続け、痛めつけ、苦しみ続ける道を選んだということでもある。そうしたことはあまり表に出てくることはないが、波多野は青島に「オレはお前を競艇選手の中で2番目に尊敬してる。1
真夜中にふと腹が減っていろいろ調理して満たされてぽーっとしていたらふと思った。 しかしなぜ日本はこんなに凋落したのだろうか? 確定できるようなことはそこまでないが、間違いなく大きく凋落に関わっているなと思うのは差別問題だと思う。かつて日本は大きく差別もんだが取り上げられたことがあって、悲惨な歴史も数多くあったのだが、悲惨な歴史だった、もうこんな歴史は繰り返してはならないと差別問題を断固やめることを選んだ。 その選ぶというのが問題で、ようするに完全に忘れましょうと。変に教育したりして「えーどこが被差別地域、被差別部落なんですか」となると結局再燃しかねない。だから完全に忘れることをみんなで選んだ。しかしその結果として、特に多分我々の年代からだろうが「差別ダメ絶対」という標語を掲げはするものの、一体差別の何がどう悲惨でどういけないのかを全く知らない、知らないくせにとりあえず正義だからと掲げはする
少し前にやたらYoutubeのおすすめにやたらZARDが出てくるようになった時がある。はて、何を基準にこういうおすすめしてるんだろう?誰かのオススメと完全に間違えてるんじゃないか?と思ったけど聞いてみると非常にいい、これもしかしてみんなめちゃくちゃいいんじゃないか? と思っていろいろ聞いてこれはいいと思っての2周目。みんな似たような曲に聞こえ始めて、あれ?1周目ものすごくよかったんだけどなあ?何が良かったんだろう?という境地に陥って何周聞いてもいまだに立ち直れていない(笑)この現象一体なんて現象なんだろう。ゲシュタルト崩壊ってやつか?あまりないような気はするけど時々起きているような気もする。ただこのZARDってやつに関してはものすごく顕著に起きたので興味深いなと。どれ一つとして何が良かったのか思い出せない。 ゲシュタルト崩壊、漢字でいえば競争の「競」の字だけがいまだにゲシュタルト崩壊してい
最近時々モンキーターンを読んでいる。しかしモンキーターンとか多分マンガの中でもかなりマイナーな部類だと思うんだが果たしてこれを書くことにどれだけの意味があるのかとも思うが、まあそういう路線をやることに意味があるような気もする。というかこういう弱小ブログってのはそういうのが魅力でもあるんだろう。タクティクスオウガとか一時期は考察ブログだらけだったはずなのに気づけばほとんど死滅してるし。そういう流れに極力逆らっていきたいところ。 ・ということで榎木さんだが、この人他人の内面を読むことに長けている面がある。これはあくまで「内面」であって「内心」ではない。「内面」を読んでいくとたまたま「内心」を読み解くこともあるという感じである。 100%正確に緻密に他人の心理を読み解くなどということはない(しできないしやろうとするだけムダ)が、ざっくりと大まかに読んで大体のところは外さずに当ててくるタイプだと言
考えてみれば死というやつもいろいろな要素があったりして一筋縄ではいかないものだったりする。 不慮の事故で一発なんてなったりもするし、なんでこんな目にとも思ったりもする。 で、辛くも生き残っても不遇続きでなにをやってもうまくいかない異様な時期というのがあったりする。 オレもかつて利き腕の握力が5キロになった時に病院に行っても「それが本当に落ちたものかどうかわからない」とか医者が言い出したり、レントゲン見てもある病院は靭帯がなくなってると言うし、ある病院は異状なしというしで無茶苦茶だった。かと思えば「5キロあれば働けるでしょ、なに甘えたこと言ってんですか」といって箸を握ることすらできないけど仕事はできる……というより握力5キロで箸も握れないけど仕事ができない理由がないという理由がないとかいう奇妙なことになったりもしたものだった。痛みが何ですか、みんな頑張って仕事してるんですよというけど、どう考
ありんこの生態についていろいろ調べていた一日だった。 アリとアブラムシって仲いいんだよなーということで一日いろいろ考えていたが、たまたまものすごく面白い動画を見つけた。 https://www.youtube.com/watch?v=IZk5LO-H7O0 アリとアブラムシの関係っていうのはものすごく薄いということを言うだけの動画なんだが、衝撃だったというか、え、そうなの?という感じだった。そんなに薄いのかと。当然ずっと仲いいから捕食とかしないんだろうなあとか思ってたが実際はそうではないと。 だからアリに砂糖をあげていればアブラムシの糖は不要になり、アブラムシのアミノ酸を求めてアリが食べ始めるというだけの話なんだが、要するにアリっていうのはアブラムシの糖によって操られるんだけど、糖というだけなら別に人が砂糖をあげてもいいわけで。これによって人が逆にアリを操ることが可能になるというのが本当に
150年くらい解かれてこなかった難問に挑戦中。実は二年目。こういうのに挑戦するの地味に好きというか、謎解き得意じゃないくせに野次馬根性でふーんと頭の隅でやってるうちにいろいろ頭の中で整理されていく感覚がおもしろい。徳川埋蔵金とか身近にあったら、多分一生かけて「かごめ かごめ」の解読とかやってた気がする。まあでも徳川家はもう幕末には財政が破綻していて埋蔵金どころではなかったらしいんだけど。そもそも埋蔵金を作れるほどの財政状態でさえなかったという。 ・全然関係ないけど、ロマサガ3というゲームをやっててなぜ閃く技と閃かない技があるのか?ってのを考えていった末に、そういや敵が仕掛けてくる技ってあるよなあと敵の行動をマネしてたらなんかそう簡単に閃かない技を閃き始めたことがあって、あ、そうだったのか!と。製作者はこういうところにヒントを作っていたんだなあともう脳汁どっぱどっぱ出しながらやってたもんだっ
ところで海上自衛隊ってのは海賊みたいなもんで(失礼)、陸が近くなってくるとものすごくテンションが高くなっていき、 「よっしゃあああ、酒が飲めるぞおー!!!」 というような一種独特な空気感ができていく、そしてなんとなくその空気感が好きだった。まあ上陸して酒場に入って、ビールこねえかなーまだかなーと待っている間が一番楽しいのかもしれない。キツイ仕事の合間に飲むビールのうまいことといい、そしてガハハハというような豪気な笑いといい、やはりどちらかといえばなんか海賊っぽいというか、海にいるとそういう気質になるのかもしれない。特に海生活っていうのは完全なる浦島太郎になるみたいなところがあるもので、そういう浦島太郎恐怖症みたいなものを漠然とながらみんななんとなく抱えていたような気がする。 子どもが小さい時に仕事で海外へ出て、帰ってみると大きくなっていたが「おじちゃん扱い」で焦ったなんて話はそう珍しくもな
信長の野望天翔記というゲームで人の採用に失敗した時に次のような会話が流れることがある。 A「うちに使えませぬかな。金品は思いの通りに与えましょう」 B「人の心が金品で買えると思うておるのか。浅ましい」 A「なんと!金品に宿る人の思いが分からぬというのか」 B「よくわかっていますぞ。金品に宿る怨嗟の声がな」 ここでのAさんはスカウト側、Bさんはスカウトされる側であるが。これとそっくりな成り行きを見かけたことがあるのでこれで解説するとする。 ・普通に考えてAさんはBさんの能力なり人柄なりを買って評価してこうして活動している。ところがBさんからするとそれが評価とか能力とか腕を買われていると映らないことがある。いやそれどころか、お前は金品やモノで動くんだろうと定められて、まるで値定めされているかのような印象を与え、評価されているどころかまるでスーパーの値切り商品を安く買い叩かれるような扱いに思われ
いつも大概ゴソゴソしているが、最近体調不良で休もうと思った。多分今年入って初めて休むんじゃないだろうか。時間があれば何かしているし、何か新しいものを考えていてよしこれを作ろうと常々思っているので。何か最近進捗状況が妙に怪しくないか?と思うことがしばしばあった。ムダがないといえばそうなのかもしれないが、たまには休息を入れてやらないと、身体も100%の状態を常に維持できるわけではないという。となると結局はムダがないってのが、実際にはムダが相当大きかったりするのだろう。 ・とはいえ、人によるとは思うものの休む方が遥かに難しいってことがあるんじゃないだろうか。オレの場合は気づけば全力疾走→熱出して寝込む→回復→全力疾走……を一年単位で毎年繰り返すなということは薄々思っていたので、まあいっそそういうもんでいいやと思っていたけど、常に一定の成果を残し続けるということを考えると、常に全力っていうのはどう
ふと思いついて、最近ミネラルウォーターや山水(雨水)と水道水を毎日飲んだらどう違うかをやっていたが、一週間程度やっていたら明らかな体調の違いがあってもしかしてこれはと思わされた。この体調の変化は何かって、「水道水でもそんなに明らかな影響は出ないだろう」と一旦仮定してガンガン水道水を飲んでみたというもので結果としてなんだか明らかに体調が優れなかった。ということはこれはけっこう重要な要素なのかも?と思った。 リクツで言えば水道水は塩素消毒されているということ。これによって例えばO-157にならないとか、貯水槽に動物が例えば死んでいても一応は大丈夫で誰も気づかないなんてことにもなったりするのだろうが。しかしそれをもっと突き詰めるならば、腸内細菌などもその強力さ加減によって死滅するということもあるのではないかと思った。強力な塩素消毒によってピロリ菌は死ぬが腸内細菌は全く無害ですというのも話としては
例えば一生懸命やってるヤツがいる。そいつを見習ってもっとがんばりましょう、なんて話にでもなったとすれば、したくない練習や努力をがつがつとさせられる羽目になりかねない。となると、どんな手を使ってでもそいつを追い落とすとか追い出すとか、活躍できないように仕向けて行くってのは意外と合理的な話なんだなと。 いるとキツイわけだし、何よりも楽しくない。そんなものを求めていないという時にソイツを追い出すことによって願った通りの理想的な環境が手に入るということになる。これは例えばスラムダンクの中で、バスケ部をやっていたのは赤木と小暮の二人だったのだが、あれとは全く逆の形ということになる。毎日楽しくやりたいし、全国とかいらないし、そもそも目指せるとでも思ってんのか?ならここじゃなくてそもそも海南とか選べよという話で、そんな弱小校で全国とか迷惑なんだよと。「お前とバスケするの息苦しいよ」ということで二人を除い
先日の話で最大の矛盾点を挙げるとすれば、ゲームしてるやつがゲームしてたからといってストレートな向上心を「ゲーム的だから」といって持てたらそりゃあこの世界誰一人苦労しないという点だろう。ゲームしてるヤツで優秀なやつはたまにはいるだろうが、ゲームしてる人間が誰しも優秀ということにはならない。そしてむしろそういう向上心の形はゲームではなく、部活動や勉強といったことから人は会得する傾向が強いということ。そしてそうでないなら向上の方法がわからないために、むしろ足を引っ張る形の向上心に進みがちになる、そしてそういう傾向は皮肉なことにゲームしてる人間の方がむしろよく陥るんじゃないかと思うのだ。なぜって楽ちんだから。効率よく相手を蹴落として評価が上がるのであれば、それをしない手がない。そういうのをあっさりやってしまえたりするのだ。 ・これを体現したゲームがあって、それが三国志8。 9以降全くやってないのだ
ふと思った。 誰も見えないところで陰湿にネチネチやるとか。あることないこと上司に吹き込むとか。できる限り頑張ってるやつをなんとしても蹴落とそうとか。あの何とも言えない後ろ向きな情熱、あれ一体何なんだろうなあと思うに、いろいろ考えた結果、あれは紛れもなく向上心なんだなということに気づいてけっこう驚かされた。 してみると向上心というヤツも二通りあるらしい。 普通に自分のやるべきことやって向上していこうとするもの。多分こちらの方が普通なんじゃないだろうか。 もう一つは相手の足をできる限り引っ張り、できるだけマイナスな影響を与えることによって相手のミスと不調を誘い、あるいは上司の評価を下げることによって相対的に自分の知いや評価を上げようとするもの。こういう形の、いっていれば向上心の亜流みたいなやつも向上心の中にはあるんだなあというお話。 ・前者は絶対的な向上心というか、言ってみれば「そこに山がある
一本目 https://www.youtube.com/watch?v=pCzy_mu3_98 二本目 https://www.youtube.com/watch?v=5Xs9TMJdTLg&t=596s まあこの二本の動画なんですけど、衝撃のおもしろさでした。急にオススメに流れてきた。ここ本当に何もないんだよなあとよくよくわかってる場所をYoutuberがやってきて脚色したり音楽流してそれっぽく流すとこういう感じになるのかと。でもこれ、ええ歳したやつが公園で全制覇してやるとか言いながらキャッキャッ♪と閑散としてる中一人で遊んでるのを想像すると、これはもう本当におもしろい。あまりのおもしろさに腹がよじれるかと思ったくらいおもしろかった。 いやでももっとなんかおもしろかったのは、見る人によって知った場所もこんなに見え方が変わるものなのかという衝撃があったこと。ここってこんな場所だったか?とい
最近タワマン殺人が話題になっている。これについて思ったことを何点かまとめておきたい。 ・まずよくある無敵の人事件と同じでひとくくりにして語られるものの、個人的には大きく違っていると思う。 無敵の人は勝手な私怨からただすべてをなくすということを選ぶ。京アニ事件にしろ、大阪のビル放火にしろ怒った、だからすべてを灰にして終了といった感じが強いが、この事件は少しニュアンスが違っているのではないかと思う。大金を渡した相手は悪人であり、そういう人間にお金を渡してしまった、悪人をのさばらせてしまった、その責任を取ってその悪人を滅ぼすものの自分も同様に滅ぶ。そこにはそういうものをのさばらせてしまった責任感というものがあり、その責任を取ろうとしているのではないかと感じ取られてならないし、憤りでただ突っ走ったようには思えなかった。しっかりと自らの犯した過ちに向き直り、そして今後の憂いを、悪人が更なる悪事を働け
ふと、植物ってのはいわゆる地縛霊みたいなもんだなどと思った。地縛霊って言葉の響きも恐ろしいが、もはや死語になってる感濃厚だ。30年くらい前は怖い言葉の代名詞だった気もするが。まあ植物はそこから一生動くことがないわけだ。 人なんて一生健康体であればあっちこっちへと動けるのだが、動けるからといってなんでもかんでもできるわけではない。いろいろしがらみがあるために好き勝手やれるというほどまでに自由ではないしそうであったらどれほど快適かということはある、ということはあるにせよまあ植物に比べてよっぽど快適に動ける。この自由に動けるはずの人間が地縛霊ってのもリクツで考えるとなんかおかしくないか?とふと思ったという。まあこっちのリクツを幽霊側に持ち込むってのもどうかとは思うが、なんか論理破綻してないか?と。動けるんだからわざわざ速物のマネしなくても動いたらいいのではという。 しかし人は動ける代わりに時には
モンキーターンの作中で有名な技(?)としてダンプというのがある。要するに艇を艇にぶつけるということだが、これによって自分の舳先の方向を変えたり相手の方向を変えたりというような技である。実際のところ競艇選手じゃないのでこんなことを考えても仕方ないっちゃ仕方ないのだが、しかしこの技の意味するところというのは非常に興味深いものがある、などとふと思った。 他の艇に体当たりして自分や事態を有利に持っていく、というといかにも豪気で一本気な感じの技に見えるものの、その実相手の技量に大きく依存している性質があり、ある意味では相手とその技量をかなり信用していないとなかなかできない技でもある。だから一見すると「我が道を行く」の典型だとか覇者はこうするものみたく見えるが、実際はものすごく相手への依存度が高い技であると言える。競艇では下手すると相手を転覆させて失格になりかねないし怪我をさせかねないものでもある。ふ
あーメンドくせえな、もっとラクして生きてえなと誰もが思う、しかし人は苦労するし苦労しつつ人生を生きることになる。で、50年とか70年とか過ぎたころに恐らくは誰しもがこれはというような何かを抱えることになる。思いついたり身に付いたりしてふと気づけば身に付いた能力や一際輝く技術などがあることにふと気付く。何しろ事業や仕事に携わって云10年なんだからそれなりに経験値も気づけば貯まっているということが起きる。 そこで基本的には親から子へと技術や能力、ノウハウの継承や伝承といったことが行われることになる。そうしたい親側の気持ちと、あーラクしてえなという子側の気持ちが一致する。その時に起きることというのが「エリート」というものであり、姿を現すのがエリート思想であり、そういったものに纏わる様々な願望の塊だと言える。当然そうした「気付き」というのは誰もが生きながら自分で経験値を貯めつつ自分で会得していくの
ということで続きだが、「差別ダメ絶対」で差別というものに全く向き合ってこない習慣のあった我々が陥ったのは、実質的に学歴差別という普遍的でその構成員全員に当てはまるべき事態だったというのが実情ではないかということだ。自分より下となれば安心感を得、逆にこいつ自分より上かよとなれば急に被害をくらったかのような不快な気分になり、不快であるからこそこいつをどうにかしてやっつけてやらなければ気が済まないとなる。 差別したらし返す、されたらよりキツい差別をし返す、差別感情を向けられたとなれば加害してもいい権利を得たかのようになる、みなす。そういう不毛な状態を迎えたのではないかということである。 その結果、上に見られたいし他者を見下したいが、かといって下に見られれば誰もが不快になるという状態だった。中卒は誰もが言わないが「中卒かよ……」という実質的で明らかにストレートな差別状態だったし、かといって院卒は「
先日Quoraで非常に興味深い質問を見つけた。 https://jp.quora.com/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%A6%E5%8C%BA%E5%88%A5%E3%81%A0-%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%86%E4%BA%BA%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%81%8C-%E7%B5%90%E5%B1%80%E8%A8%80%E8%91%89 差別ではなく区別だという言葉は言い方を変えただけですかという質問に対し、解答者は 「必要な差別はある」という事例を返す。 日本人は部屋を貸してもキレイに使うし基本的に安心して貸せるが、しかし外国人はそこで何を仕出かすかわからない。従って日本人よりも高めに家賃等を設定すると。でもそれが根も葉
という言葉をなんとなく知っていたが、ふと思い当たって長々と考えて見たが。 古代人というやつはなんというかとんでもなくすげえなと思わされた。なんと肝が据わっていることか、そして事態を冷静に見て、自分にとってプラスになるならば徹底的に活用してしまおうとなんとあっさり考えてしまうことか。深みらしきものもないが、こうした態度と姿勢そのものがいかにもあっさりしていて、逆にそうした事態を前にしてあっさりした姿勢でやり取りできるものなのかと考えさせられる。それに比べて現代人なんて小手先のワザばかり長けているだの小波がきたら即あっぷあっぷするさまだの、古代人に比べてちょっと脆すぎる感じがある。失ったものの多さを考えてはいちいち数え上げて嘆いてばかりいるより、得たものの方に目をやっていかに成長できたかを考える方が余程前向きだとおもわされたし、そういう功利的、怜悧(れいり)といってもよいようなものを学ぶ必要性
詳しくはツイッターで呟いたので省略するが、まあ凄腕で知られる社長ってのがいたらしい。実力派のイケイケのガンガンで、地元では企業らしい企業もないので素晴らしい地元貢献もしていると。ただあまりにも優秀すぎるためか、周囲というか出来ない人にはキツく当たる人でもあったらしいが、直接会ったことがないのでそこら辺の事情がどうだったかまでは知りようがないので後は憶測である。 ・好循環ってのは明らかにある。頑張る、自分も含めた周囲が良くなる、良くなるからまた頑張れる、そしてまた周囲が良くなると。そういう循環というものとその形というのは明らかに非常にわかりやすい形で好循環を作っているものだと言える。しかし誰もがそんな好循環をそう簡単に構築できるわけではない。 するとその代替としての悪循環の回路を作り出すことになる。 死屍累々で、その人に関わったみんなが死ぬのだが、しかし ①みんな死んだのに自分だけ生き残った
今日枝を剪定ばさみで切ろうとしたら謝って自分の指を切ってしまったという。かなり深めに切ったが、ほぼ痛みはなくサクッと切れてしまった。 まるで枝と間違えてソーセージでも間違えて挟んだか?というぐらいに。片手の中指の真ん中あたりをつまんでみたらそこそこ肉が伸びると思うが、これが丸々すっぱりと切れてしまった。伊達に日本刀の技術使われてないな、というのをまさか自分の身体を通して体験することになろうとは。 当然ものすごく血が出たが、しかし皮膚がきれいに切れていたので、指を折って皮膚を曲げるとぴたりとくっついて、それによって血が止まったという。そのまま5分10分程度置いておいたらきれいに止まったのでそこからいろいろ処置をした。 最初は焦っていたが、余裕が出てくるとなんかどうでもいいことを考え始めたのでそのお話。 通販番組。 朗読推奨。 「みてくださいこれ、剪定ばさみ! これなんと、刃の部分に使われてい
負の感情に向き合うってのは誰もやってないことのようだしそういうことは一生やらない方がいいような気もしているが、まあやらないよりはやった方が現状マシなのでやってみることにする。 いつかも書いた気がするが、敵味方を分けるものってのは喜びを共有できるか、いやな現象をどこまで共有できるかが味方であり、その逆が敵であると見ることもできるように思う。 司馬懿は諸葛亮が死んだと聞いたらこれ好機と喜んで攻め寄せたが、諸葛亮はそのことも見越しており逆に驚かされて、しまった計略だったかと命からがら陣に逃げ戻ったということがある。いわゆる「死せる孔明生ける仲達を走らす」の故事である。偉大な味方が死ねば嘆き悲しむしかないが、偉大な敵が死んだならば、これ幸いと攻めるしかない。ある意味味方とは正比例の関係、敵とは反比例の関係にあると言えるだろう。まあ最近は複雑化しているから、味方が出世したら憎らしく思い、足を引っ張り
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