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レイングッズ
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To read in English (Published Apr 15, 2019), please click here. 僕は残酷なほど、正直な人間だ。だから、ここで小さな秘密を教えてあげるよ。マンチェスター・シティに加入するまで、ラヒーム・スターリングという男について、僕は何も知らなかったんだ。それまで一度も会ったことがなかったし、英国のメディアが書く彼の人物像からすると、ずいぶん変わった性格を持つ人なんだろうと思っていた。 そう思っていたんだけど、実際は……。 彼が悪いヤツだとは、まったく考えていなかった。ただタブロイド紙はいつも、スターリングは傲慢だと主張していた。だから僕は彼のことを……英語では何て呼ぶのかな? A bit of a dickhead って感じかな? ラヒームと僕は、すごく強い関係で結ばれているんだ。なぜなら、僕らはシティにほぼ同時期に加入したし、当初はどちら
To Read in English, click here. 僕が好きな横浜のファンについて話をさせてもらいたい。 彼にきちんとした形で会ったことは一度もない。だから、彼の名前さえ知らない。僕は彼のことを “ポスター男” 、もしくは “ミスター・ポスター” と呼んでいる。 彼については、本当になんと言っていいのかわからない。それくらい...... 最高の男なんだ。 彼がどれだけ最高なのかを理解してもらうには、ちょっとした説明が必要だと思う。補足させてもらうと、僕の妻、ステファニーはモデルをやっている。たまに水着のモデルもしているんだ。 OK、例の男性...... ミスター・ポスターについても説明させてもらうよ。 いつだったか、彼は僕たちの試合を観戦しに来た時、非常に大きな画用紙を持って来た。彼の作品は両面で、ラミネート加工されたポスターだった。どちらが表か裏なのかは各々の見方次第だけれど
父は元競輪選手で、僕は2015年の自転車競技で世界ジュニア王者。そう言うと、ほとんどの人が「エリート」という目を向けてくる。きっと、小さい頃から自転車の英才教育を受けてきたのだろう、と。 でも、実は僕が競技を始めたのは高校生になってからだ。それまでは、いわゆる「ママチャリ」にしか乗ってこなかったし、単純に移動手段として近所で使うくらいだった。父が出ている競輪のレースすら見たこともなかった。 自分が特別だとは思わない。ジュニアからシニアのカテゴリーに移ってからは、納得のいく結果を手にしてきたわけでもない。まだまだ無名の、一人の選手に過ぎない。 虹の麓には幸せがあるという。くしくも、自転車競技のトップ選手のみが着ることを許される憧れの「マイヨ・アルカンシエル 」のジャージは、虹色だ。 パリ2024オリンピックまであと2年。ここからの成長を積み上げること、「たたき上げ」のストーリーを紡ぐことこそ
To Read in English (Published Feb 26, 2020), click here. ボンディの子供たちへ。 イル・ド・フランスの子供たちへ。 バンリューの子供たちへ。 みんなに、このストーリーを伝えたい。 これはサッカーにまつわる話で、その点ではみんなも驚かないだろう。僕にとっては、あらゆる物事がサッカーと結びついている。父に聞いてもらっても構わない。3歳の誕生日に、オモチャの4WDトラックを父が買ってくれた。電動モーターで動くやつだ。ペダルなども付いていて、実際に座って運転もできる。両親は、家から道を挟んだ向かいのサッカー場まで、トラックに乗って行くことを許してくれた。まるで車を運転して練習に向かう本物のサッカー選手のようにね。こんな些細なルーティンでも、僕にとってはとても大事だったんだ。あとは、コスメポーチがあれば完璧さ! 練習場に着くと、車はいつも角に停
To Read in English (Published Oct 27, 2022), click here. 月曜日の朝が好きだったことなんて、一度もない。 子供の頃の僕にとっては、一週間で最悪の日だった。問題は学校ではなく、自分がほとんど死にかけの状態だったから。時には、ほぼ眠れずに朝を迎えた。何日もシャワーを浴びていなくて、エンジンオイルの匂いと共に教室の席に座っていることもあった。 当時は毎週末、ゴーカートのレースに出ていて、それが終わるのは日曜日の夜だった。時には、会場までクルマで10時間くらいかかることもあった。そんなところでレースに出て、次の日の朝に学校へ通うなんて、まず無理なはずだよね。でもね、うちの家族は、なんていうか、普通じゃないんだ。そんな不可能に思えたことでも、なんとかやってのけてしまうんだ。 友達が遊んでいる時、僕と父、兄、メカニックで構成されたチームは、遠征に
日本語版はこちら This time three years ago, I was literally working a 9-to-5 job. Actually, it was more like a 5-to-3. Five in the morning to three in the afternoon. This was in 2020, after the minor league season was canceled. I had moved back home from spring training in Jupiter, Florida, to my parents’ place in El Segundo. And at first it was sick. I’d wake up, throw on some sweats, and head over to US
To Read in English, click here. 3年前の今頃、僕は文字通り、9時5時の仕事をしていた。 いや、実際は5時3時だった。朝5時から午後3時までの仕事だったんだ。 それは2020年、マイナーリーグのシーズンがキャンセルされたあとのことだ。僕はフロリダのジュピターで行われていた春のキャンプから、エルセグンドの実家に戻っていた。最初は本当に最高だったよ。目が覚めたらボールを投げて汗を流し、友達のアンジェロとチップス(本名はジョン)と一緒に南カリフォルニア大学へ行ってね。キャンパスの近くにクルマをとめて、USCトロージャンズのバッティングケージに忍び込んで。警備員の目を盗んで、Go Go Go! とフェンスを飛び越え、壁の隙間に入り込んでさ。楽しかったよ。 ところがある夜、バッティングの練習から戻ってくると、両親から座るように言われ、彼らはこう切り出した。「いいかい、あ
To Read in English (Published Feb 12, 2020), please click here. 僕は球界で「何でもずけずけ言うやつ」と思われている。言い方を変えれば、僕が球界を混乱させているということだ。でも、「何でもずけずけいうやつ」というのが僕に対する正しい表現なのかわからない。僕はただ真実を語ろうとしているだけだ。事実に基づいたことをいつも言っているつもりで、決してでたらめを言っているわけではない。もし僕が間違っているなら、それは素直に認めるつもりだ。ときには、真実を話すことが誰かを困らせたり、怒らせたりすることは理解している。でも、それで自分を変えるつもりはないし、自分が正しいと思っていることを引っ込めるつもりはない。 真っすぐに生きていくのは大変だ。人は孤独でいる時間が長いし、それはかなりしんどいものだ。しかし僕は孤独に慣れていた。温かい家族のもと
To Read in English (Published Feb 9, 2023), click here. 僕はいつも、アーセナルと不思議な繋がりを持ってきた。実際にクラブと契約を結ぶよりもずっと前からね。それを説明するには、このちょっとした話をするほかない。 僕はテレビゲームにのめり込んだことはなかった。僕らが子供の頃は、いつも外で遊んでいるのが普通だったからね。でもFIFAだけは、例外だった。プレーするのは大体、キャリアモード。監督になってチームを運営する、あれのことさ。 選ぶクラブはいつもアーセナルだった。僕のFIFAのチームだね。 ノルウェーで育った僕は、いつもプレミアリーグを観ていて、アーセナルに好感を抱いていた。ティエリ・アンリやインヴィンシブルズの映像も観たことがある。このクラブはファブレガスやナスリ、エジルといったプレーメイカーを育てていることも知った。実にスマートでテ
ヘリコプターからぶら下がっている。 上空100フィートで、ロープとハーネスで固定されている。1998年3月のことだ。nWo vs. WCW時代最高潮の時期。俺は、“クロウ”スティングのフェイスペイントをしている。普段なら、会場の垂木で待機していて、出番を待っている。一言も発さない。そしてショーのクライマックスを迎え、天井から一気に降下し、俺様の黒バットでバッドガイどもにきっちり挨拶させてもらう。 でも、今回ばかりは勝手が違う。今回の興行は、パナマビーチでのスプリングブレーク特別版ナイトロで、垂木なんてない。屋根もない。スプリングブレークの狂騒の真っ只中、屋外での興行だった。これでは、この夜はスティングが天から降臨し、いつものようにnWoを駆逐するチャンスはない。そうだろ? スキアボーネも、ビショッフも、ホーガンも、俺は現れないと言っていた。 マイクを手に持ち、ファンを挑発していた。「よう、
To Read in English, click here. 僕にとってNBAでの5シーズン目が、いよいよ始まりました。 今日は、今シーズンからお世話になるブルックリン、そして昨シーズンまで在籍したトロント、この2つの街とチームについて想いを伝えられたらと思います。 まずはマンハッタンからイースト川を渡った位置にある街・ブルックリン。 僕はこの街と何か不思議な縁があると感じています。 というのも、9年前にバスケットボールの本場アメリカにやってきた僕は、節目節目でこの街にいたからです。秋景色になり少し肌寒くなったこの街並みを歩くと、特別な思い出がよみがえってきます。 5シーズンに渡って一度も開幕ロスターが確定していない“崖っぷち”の状態からのスタート - 渡邊雄太 今から4年前。ジョージワシントン大学を卒業した僕は、NBAのドラフトで指名されることを目指して様々なチームを渡り歩き、ワークア
今年もメジャーリーグで、大谷翔平選手が圧倒的な存在感を見せつけファンを魅了している。打って良し、投げて良しの二刀流。僕ら世代が考えていた野球とは、まったくかけ離れた世界にいるといって良い。本当にすごい。 僕にとって、彼は現役時代最後に対峙したバッターでもある。その時投じた8球が、「黒田博樹から大谷翔平への無言のメッセージ」として受け止められているのだと、メディアの報道を通じて最近知った。 大谷選手が「ほぼ全球種を打席で見ることができた。間合いやボールの軌道が勉強になった」と言ってくれていたらしい。何しろ普段から自分に関わる報道は目に入れないようにしていたので、これまで知る機会がなかった。 大変光栄に思うと同時に、「いや、あれは大谷選手自身が僕から引き出してくれたものだったんですよ」と言いたい。意図的に球種の幅を見せよう、なんて余裕はなかった。6年ほど前のことなので細かいことは覚えていないが
「彩佳な、いつかタイガー・ウッズと戦うねん」 母が言うには、小学生になる前の私は、生意気にもそんなことを豪語していたらしい。自分にとっては記憶の彼方で、覚えていない。 けれど、根本は変わっていないのかもしれない。「最高の選手と戦いたい」「勝って1番になりたい」。そんな思いは、今の私にも確かにあるからだ。 究極を言えば、「世界ランク1位」をとることが自分の理想。前人未到の通算683週もの間世界ランク1位に君臨した、タイガー・ウッズ。憧れのタイガーに少しでも近づけたらと思って頑張っているのが、今の私の正直な気持ち。 あぁ、言っても〜た! でも、宣言することで腹をくくれる部分もあるのかな。 22歳になった私が小学生の自分に気概で負けるわけにはいかないし、ここにしっかり記しておくことにしようと思う。 スポーツをすることが、家族のコミュニケーションだった - 古江彩佳 ゴルフを始めたのは3歳の時。
To Read in English(Published May 20, 2022),click here. こんなこともあるさ。 時として、こういうのは本当にシンプルなんだ。 僕はバスケットボールを生業にしている。バスケをプレーしていれば、ケガをすることだってある。メンフィスでの(NBAプレーオフ、ウェスタン・カンファレンスセミファイナル)第2戦が行われた夜...ケガをした。起こってしまったことは仕方がないし、不運だった。でも正直なところ、それほど落ち込まなかったんだ。 あのプレーで起こったことについて、さまざまな論争もあるだろうけれど、僕があの出来事で一番記憶に残っていることは何だと思う? 与えられたフリースローさ。 コートに叩きつけられた後、フリースローを打ちたくて仕方がなかった。悲しさ全開ですぐにロッカールームに下がることだけはしたくなかった。せめて、チームのために点を決めるまでは
悔しくて泣くのは、あれが最後だと思う。 4年前、僕はまだ16歳で、鈴鹿サーキットレーシングスクールの生徒だった。ホンダのフォーミュラ・ドライバー育成プログラムに入るための最終選考会。受かったら翌年の国内F4で走れるが、落ちたら……僕はあのとき、レースをやめようと思っていた。 F1という舞台の入り口に立ったいま。振り返ってみると、あれが人生の分かれ目、ターニングポイントだった。 その年の選考会は、すでにF4で走ったことがある経験者だけじゃなく、海外を経験して帰ってきている選手もいたので、もちろん受かるかどうかはわからなかった。 ただ僕は4歳からずっとカートでレースをやってきて、順調に成績も収めてきた。その年、スポット参戦を許してもらったフォーミュラのデビュー戦では史上最年少で表彰台、スーパーFJ日本一決定戦では初優勝。スクールでも最終選考会まではいい結果が出ていて、それまでのポイントの合計で
To Read in English(Published Jun 2, 2017),click here. インディ500の残り2周時点。先頭で走る感覚は、人生において他では得られない。 望みさえすればいくらでもレースで走ることができるし、優勝だってできる。トラックでは偉大なレジェンドたちに真っ向勝負を挑める。だが、インディの日曜日、最後の数マイルの準備はどうしたってできない。 そこに以前、いたことが無ければ。 2012年のレースで、僕はそこにいた。そして勝てると思っていた。 僕は、さまざまな理由からその日のことを覚えている。そう、とても暑い日だった。気温はちょうど100℉を超えていた。だが、それが自分には有利に作用した。周りの車の多くはレース半ばで冷却に問題を生じ始めていたが、僕たちのレイホール・レターマン・ラニガン・ホンダは実にうまく動いていて、コースではいいペースで順位を上げていった
元プロ野球選手が、学校をつくる。 普通に考えれば、少年野球やリトルリーグに関連した「野球の学校」だと想像されるだろう。でも、僕がつくったのは小学校だ。6年間の義務教育。子どもたちが学び、育ち、挑戦する場所。 きっと、地元・福岡の知り合いたちは、ひっくり返って驚くだろう。 僕だって、野球1本でやってきた自分が、まさか学校経営に携わるようになるとは考えていなかった。若い頃の自分は、1%だってそんな未来は思い描いていなかった。 じゃあ、なんで――? その答えは、やっぱり野球にある。 野球を通して培ってきたあらゆる経験が、僕を自然と教育現場に導いた。 この4月、札幌市に念願の小学校、「田中学園立命館慶祥小学校」が開校した。僕はその理事長。いまは、この道を歩んでいくことに、とてもワクワクしている。 2013年秋。僕はベネズエラにいた。世界で三本の指に入る犯罪の多い国と言われている。 米大リーグ挑戦1
To Read in English,click here. 考えれば考えるほど、プロのベースボールプレーヤーとしての最後のスイングが日本での一振りになるかもしれないなんて、自分らしいと思う。 しかも、何もかもが完璧だった――あの瞬間は一生忘れない。 ヤクルトスワローズと対戦した2021年の日本シリーズ第5戦。妻と2人の息子はスタジアムで観戦していて、ダグアウトのすぐ近くの席にいた。だから、試合中も家族と話していたんだ。自分は先発ではなかったし、代打の出番がくるかどうかも定かではなかった。でも、ヤクルトが8回に3点を取って5-5の同点になった後、9回の先頭打者として監督が僕を呼んだ。 マウンドにいたのはスコット・マクガフ。カウントはツーボール・ノーストライク。来た球はインサイドのファストボール。19年のキャリアで何百万回と見てきた球だった。そして―― まさに会心の一撃だった。 カキーン!
To Read in English(Published Jan 3, 2018),click here. これまでもたくさんのリストを作ってきた。だけど、今回のような企画は初めてだ。過去に対戦した中で個人的に好きな相手だって? どう考えても俺らしくないじゃないか。 リスト作成の面白いところ。それは、食料品、子供の名前、最悪の相手、何だっていい。短くても、長くなっても、番号をつける形でも、箇条書きスタイルでも、何だって構わない。どんな形にしたっていいんだ。 ジェリコ中毒者でもリスト中毒、愛好家でも誰でもいい。これが俺のリストだ。みんな、ぜひ楽しんでくれ。 ウルティモ・ドラゴン(WAR、1995年7月7日) ウルティモと出会ったのは、俺たちがCMLL(当時メキシコ最大のプロレス団体)で試合をしていた1993年だった。一緒に興行をするようになってから、俺たちがリング上で素晴らしい化学反応を起
3月8日は国際女性デーです。僕は、8年間のプロ野球選手としてのキャリアを通して、球界の女性に対する態度が徐々に変化してきていることを自分の目で見てきました。今日はそんな僕の経験をみなさんに共有したいと思います。 フロリダ州ダニーデンのスプリングトレーニング施設に初めて足を踏み入れたときに最初に気付いたことは、ブルージェイズで働く女性の数の多さでした。ブルージェイズは多くの女性を雇用しているだけでなく、その女性たちは打撃コーチからフィジカルコーチ、バイオメディカルエンジニアにも配属されています。これらの役職はこれまで長い間、MLBでは男性のみが担っていた役職です。 僕は8シーズンもプロ野球でプレーすることができ、さまざまなチームでプレーする機会をいただけたことをとても幸せに思っています。その間に僕が学んだことの1つは、野球界は常にものすごいスピードで変化しているということです。野球界で女性が
16歳の阿部勇樹へ。 お元気ですか? もしかして、また試合に負けて泣いているところだったりするのかな。君はいつも泣いているよね。自分で振り返ってみても、「なんでそんなに泣くの?」って言いたくなるくらい泣き虫だった。いまはちょっと涙を拭いて、僕の話を聞いてくれるかな。 改めて聞くよ。君の夢はなんだい? 4年前にスタートしたJリーグでプロ選手になることかな? 驚かないで聞いて欲しい。そのJリーグデビューは今年の夏に、突然訪れる。そして、40歳までプレーすることになる。その涙がすべて無駄じゃなかったんだと思える24年間だ。伝えたいことはたくさんあるけど、まずはいまの君へのアドバイスから始めよう。 君にとっては少し前の話になるけど、高校進学をめぐって家族に大反対された「事件」があっただろ? 君はとにかくサッカーをやることしか考えていなかったから、ジェフユナイテッド市原ユースでの活動を中心にやってい
先日ふと思い出して、ある懐かしいものを読み返してみた。 それはタイムカプセル。小学校の卒業式の日に詰め込んだ僕の夢。 -10年後の 渡邊雄太へ- バスケットのチームは、どこに入っているんですか。 背番号は何番ですか。 NBAにいってるんですか。 身長は何cmですか。 10年後の自分はまだNBAに入ってないならがんばれ〜! 小学生の僕が、未来の僕に胸を高鳴らせ送ったメッセージだ。 ある日の夕食後、父がソファーに腰をおろして観ていたNBAの試合中継。 そのとき確か、僕はまだ小学2年生か3年生だったはず。 「何を見ているんだろう」 何気なく、父のそばに座って観たのがロサンゼルス・レイカーズの試合だった。 NBAがどれほどすごい舞台なのかすら、分かっていなかったと思う。 それでも幼い僕にとって、画面の向こうに映るプレーの数々はあまりにも衝撃的だった。 「こんなにすごい世界があるのか!」 なかでも、
40歳になるシーズンをどこで過ごすのか――。 2014年12月、僕はこれまでになく悩んでいた。 オファーを出してくれたのは、報道で出ていた通りその年まで在籍していたヤンキースとメジャー複数球団。 そして…古巣、広島東洋カープ。 引退も視野に入ってくる年齢で、これだけ多くの球団から評価をしてもらい、報道に出ていたような大きな契約のオファー(TPT編集部注・単年20億円以上)もいただいていた。選択肢を持つことができた自分は、相当な幸せ者だと言っていい。何よりメジャーがまだ僕を必要としてくれている、そのことが素直にうれしかった。 ただ、やはり残された野球人生がそう長くないことを思うと、何を決め手に選べば良いのか、自分でも分からなくなってしまっていた…。 1分1秒と変わってゆく考え。 蕁麻疹が出るほど悩みに悩んでいた。眠れない日々で消耗し、気がついたら年の瀬が迫っている。日本の野球シーズン始動はア
2008(平成20)年8月23日――。 僕はこの日を一生、忘れないと思います。この日、中国・北京ではオリンピック野球競技の試合が行われていました。日本代表チームはアメリカとの3位決定戦に臨んだものの、4対8で敗れてメダル獲得はなりませんでした。その敗因となったのが、逆転のきっかけとなった僕の落球でした。 実はその前日に行われた韓国戦でも、僕は2つのエラーを犯しています。オリンピックの大舞台で、まさかの3つものエラー……。 金メダルの夢が僕のせいで途絶えてしまって、本当に申し訳ございませんでした - G.G.佐藤 日本代表チームを率いる星野仙一監督は、大会前に「金メダル以外はいらない」と宣言していました。しかし、僕のエラーによって、金メダルどころか、銅メダルさえも獲ることができませんでした。最後の試合が終わってホテルに戻った後、チームメイトに合わせる顔がありません。「死にたい」という思いを抱
To Read in English (Published Oct 14, 2019), please click here. 親愛なる17歳のジャンルイジへ。 多くの人生経験を重ねて、間違いも犯してきた41歳の男として、今夜、私はこの手紙を君に宛てて書く。いいニュースも悪いニュースも伝えようと思うけれど、実は、君の“魂”について語ろうと思ってペンを取った。 そう、君の魂だ。まだわからないかもしれないけれど、君はそれを持っているんだ。 まず、悪いニュースから始めよう。君は17歳。夢にまで見たプロのサッカー選手に、いままさになろうとしている。自分は万能で何でも知っていると思い込んでいる。だが実際は、残念ながらまだ何ひとつわかっていない。 数日後、君はパルマの選手としてセリエAデビューのチャンスを得ることになるだろう。だが、まだ怖いもの知らずで無知なだけだ。夜は温かいミルクでも飲んで早く寝るの
To Read in English (Published Jun 18, 2018), please click here. 我が家のカネが底を尽きたと悟った瞬間を覚えている。冷蔵庫の前に立つ母さんの顔を、いまでも鮮明に、だ。 俺は6歳だった。いつも学校の昼休みの時間は、一度家に帰ってランチを食べていた。母さんが用意してくれるのはパンとミルクだけ。毎日、同じメニューだったよ。子どもだったから当時は気にならなかったけど、いま思うと、それしか買えなかったんだと思う。 あの日、俺が家に戻りキッチンに入ると、いつものように紙パックのミルクを持って冷蔵庫の前に立つ母さんがいた。だが、その紙パックに何かを混ぜて、振っていたんだ。最初は何が起こっているのか理解ができなかった。母さんは俺のランチを持ってきて、まるで何事もなかったかのように微笑んだが、すぐに気づいたよ。 彼女はミルクに水を混ぜていたんだ。
【Dear Jeter | 松井秀喜】はこちら English version please click here. 「ヤンキースでワールドチャンピオンになりたい」 この夢を実現するために、日本を飛び出したのが2003年。あれから18年が経ち、気づけばアメリカで生活した月日が、生まれ育った故郷・石川で過ごした歳月を超えようとしています。 夢を現実にすると決意したのは、1999年の秋です。 その年、所属していた読売巨人軍がリーグ優勝を逃し、少し早いシーズンオフに入ったので、ヤンキースのプレーオフをニューヨークで観戦したいと思い、すぐにニューヨークに向かいました。リーグチャンピオンがかかったヤンキースとレッドソックスの試合を観戦する機会を得ることができました。当時のヤンキースはまさに黄金時代。ピンストライプのユニフォームをまとった名選手たち、スタジアムの雰囲気、そして肌で感じる緊張感。すべてに
To Read in English, please click here. 私は6年半前に、ちょっと“らしくない”ことにチャレンジしました。ヤンキースの選手として現役生活を終えた2014年10月のことでした。それまでの人生のほとんどを大きな夢の中で過ごしてきましたが、新たな情熱を捧げられる次のステップに進むべきことを理解していました。 私の決断は、多くの人を驚かせることになりました。少数精鋭の信頼できるメンバーとともに、あるネットメディアを立ち上げることにしたのです。 それが「ザ・プレーヤーズ・トリビューン(TPT)」でした。 発想は至ってシンプルです。アスリートが自分の言葉で、自分自身のストーリーを語ることができる場を作ろうと、私たちは考えました。 彼ら、彼女らが、ありのままでいられる場所です。 そしてこの数年間で、私は「ザ・プレーヤーズ・トリビューン」の存在意義を再認識する機会を幾度
【Thank you, New York | 松井秀喜】はこちら English version please click here. 日本から海を渡りニューヨーク・ヤンキースでプレーした7年間。 1人の偉大な選手と出会い、そしてともに過ごした日々が私の人生にとって大きな財産となっています。 その選手こそが、デレク・ジーターです。 私が説明するまでもなく、現役時代の彼はピンストライプのユニフォームがとても良く似合い、そのプレーとキャプテンシーでファンを魅了し続けました。まさしくメジャーリーグを代表するスーパースターでしたし、いまなお、その姿は世界中の人々の心に深く刻まれていると思います。 そのジーターが、ザ・プレーヤーズ・トリビューン(TPT)日本版のスタートに際して、『Dear Japan』という記事を公開しました。その中で彼が日本へのメッセージに加えて、私との思い出、そして日本で一緒に
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