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訪問おすすめ度C [名生(みょう)城] 名生城は観応2年(1351)に大崎兼家によって完成したとされる。大崎氏は足利一門斯波氏の一族であり、大崎五郡や黒川郡などに勢力をもった。しかし一族の内紛がたびたび起こって次第に衰退し、13代義隆の代に豊臣秀吉の小田原攻めに参陣できずに領地は没収、大崎氏も滅亡した。名生城はその後一揆の拠点になったが蒲生氏郷によって鎮圧され、一時は伊達政宗の叛意をも警戒した氏郷が立てこもったがまもなく廃城になった。
2010年10月24日 東北の道 概説(その4・完 近世) カテゴリ:東北 ■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」 ■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日) 街道と海の交流文化は近世に入ると一層際だってくる。 1 街道の整備 重要な点は、幕府や藩による水陸交通路の開拓である。弘前藩は城下町の建設とともに、参勤交代路を海岸通りから矢立峠越えの街道(羽州街道)とした。盛岡藩は奥州街道沿いに新城下町を建設。仙台藩も仙台に新城下町を建設し、岩沼以北の幹
2010.10.24 東北の道 概説(その3 中世) カテゴリ:東北 ■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」 ■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日) 平泉没落後の中世東北は関東からの武士移住で語られることが多い。官道東山道改め奥大道(おくだいどう)が奥州の幹線で騎馬の往来が多くなっったと思われる。13世紀の奥大道には、安積、船迫、益田(名取市)、河原(仙台市岩切付近)などの宿が発達し、定期市も開かれた。 武士が土着しやがて領主層に成長するが、
2010年10月23日 東北の道 概説(その1 古代) (1) カテゴリ:東北 場所や時代をこえて、巨視的に歴史の大筋を把握することが必要な場合がある。とくに東北を地域単位と捉えてその交流史を理解するには、文字通り主軸となる「道」の概要を掌握しなければならないだろう。 ■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」 ■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日) (なお、理解を深めるために上掲書中の図(街道図など)も引用させていただきました。図版等の直接引用
2010.10.24 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道) カテゴリ:東北 ■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日) 1 古代の官道整備と平泉政権を支えた道 東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。 平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。 その交流の道として、白河から外が浜まで
東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400~500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。 国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津
恐竜の前脚の指と鳥類の翼(前脚)の指が発生学上は同じ構造であることを、東北大大学院生命科学研究科の田村宏治教授(発生生物学)が明らかにし、11日の米科学誌サイエンスに発表した。鳥類は恐竜の一部から進化したとされるが、指の発生の仕方が異なると指摘し否定する研究者もいた。今回の研究成果は鳥類の恐竜起源説を強力に裏付ける証拠になるという。【鈴木一也】 恐竜の指は第1~5指(親指~小指)のうち、第4、5指が退化して「第1-2-3指」になったことが化石から分かっている。これに対し、鳥類の翼の指は位置や形から「第2-3-4指」で構成されるとみなされてきた。 田村教授は、産卵直後から約20日間のニワトリの指の形成過程を分析。これまで第4指とされてきた最も外側の指が、実は第4指を作る領域(ZPA)ではなく、第3指を作る場所から発生することを突き止めた。 従来の研究では受精から発生初期が詳しく観察されず、指
崇神天皇(すじんてんのう、旧字体:崇神󠄀天皇、開化天皇9年または10年[注 1] - 崇神天皇68年12月5日[1])は、日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。『日本書紀』での名は、御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)。実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、近年発掘の進む纏向遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である。 略歴[編集] 稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異母兄に彦湯産隅命(迦具夜比売命の祖)。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟
『記紀』の原史料として重要なものとして『帝紀』や『旧辞』がある。これらの内容は古くに佚失し伝存していないが、前者は天皇の名前、系譜、后妃や子供の名、宮の場所、治世中の重要な出来事、治世年数、王陵の場所[4]、後者は神代の物語、神々の祭の物語、天皇や英雄の歴史物語、歌謡、地名・事物の起源説話などからなっていたと推定されている[5][注釈 4]。欠史八代が「欠史」とされるのは、『記紀』に伝わる各天皇の記事がほとんど『帝紀』的な系譜情報のみからなり、『旧辞』の部分、即ち物語や歌謡など具体的な歴史情報が存在しないことによる[7]。このため、この八代の天皇が皇室の起源をより古いものとするために後世に追加されたものであることが疑われ、その実在性が問題となった[7]。 欠史八代の議論が本格化するのは第二次世界大戦終結後である。戦前、『記紀』の研究には皇統や国体といった概念への一定の配慮が必要であり、特に
斉明天皇の崩御まで 中大兄皇子が皇極天皇4年(645年)6月12日に20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少であり、おそらく陰謀には関わらなかった[12]。事件の結果、皇極天皇は退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)となり孝徳天皇が即位した。同母姉の間人皇女が皇后となり、大海人皇子は皇弟(すめいろど)と呼ばれた[13]。後、白雉4年(653年)に中大兄皇子が孝徳天皇と袂を分かち難波京から倭(やまと)に移ったとき、皇祖母尊・皇后・皇弟らは行動をともにした[14]。やがて孝徳天皇は病で崩じ、皇祖母尊が斉明天皇として再び天皇になった。 大海人皇子は中大兄皇子の娘を次々に4人まで妻とした。百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときには、大海人皇子も妻を連れて従った[15]。旅の途中、斉明天皇7年(661年)1月8日に妻の大田皇女が大伯海[16] で大
巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵 国宝 平安時代・9世紀 現存最古写本 画像は現存第1紙(応神天皇紀) 巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵 国宝 鎌倉時代・弘安9年(1286年)卜部兼方奥書 画像は巻頭部分 巻第二十二の写本(岩崎本、2巻のうち)京都国立博物館蔵 国宝 平安時代・10 - 11世紀 画像は推古天皇元年正月紀(「法興寺の塔の刹柱に仏舎利を安置」の記事がみえる) 『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ[1]、やまとふみ[2])は、奈良時代に成立した日本の歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる[3]。日本に伝存する最古の正史で[4]、六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる[5]。神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文・編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[6]。
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