震災から10年ということで、ちょっと「震災後にものすごく頑張ってくれた人たち」の話をしていいですか。 私は新潟県民でして、福島県とは隣接県です。 なので震災後、うちの市もお迎えのバスを出して沢山の被災者の方を受け入れました。 とりあえず最初は公民館が避難所になっていました。
東日本大震災アーカイブスでは、当時の映像を時系列に並べることで、何がどのように起こったのかをふりかえります。正直、まだふりかえりたくないという方も少なからずいらっしゃるかもしれません。しかし、何が起こったかを改めて見ることで、気がつくことも多いと考えます。発災から72時間に起こったことを、映像とともに見つめなおすことで、災害への備えの大切さや今後のための教訓について、一緒に考えることができればと思います。 2011年3月11日に発生した東日本大震災は、国内の観測史上最大のマグニチュード9.0を記録。(2011年3月13日気象庁発表) 死者・行方不明者は、1万8446人にのぼっている。(2017年3月10日 警察庁発表) 映像視聴時のお願い このサイトでは、東日本大震災に関する映像(津波や火災など)を公開しています。 このため、映像をご覧になった時に精神的なストレスを感じられる方もいらっしゃ
#東日本大震災から10年 フォローしている人の地震発生直後のツイートを表示して、当時のTLを再現するリンクです。検索画面に移動するので、タブを最新に切り替えてご覧ください。 発生後10分間… https://t.co/W8bhYjmT4l
トルコとギリシャの間のエーゲ海で発生した地震と津波では両国でこれまでに合わせて27人の死亡が確認されました。震源地周辺では余震とみられるマグニチュード4以上の地震が少なくとも6回起きていて、トルコ政府は注意を呼びかけています。 発生から一夜が明けたトルコ西部のイズミル県では、建物が倒壊した8か所の現場で捜索と救助活動が続いています。 トルコとギリシャの当局によりますと、これまでにトルコでは25人が死亡、804人がけがをし、ギリシャでは2人が死亡、8人がけがをしたことが確認されたということです。 USGS=アメリカの地質調査所によりますと、震源地の海域では余震とみられるマグニチュード4以上の地震が少なくとも6回起きています。 地元のテレビは、住民の多くが自宅が余震で倒壊するのを恐れて屋外で夜を明かしたと伝えています。 トルコ政府は、今後もしばらくは地震が続く可能性があるとして注意を呼びかけて
政府は、福島第一原発の事故調査委員会の調書127人分を公開しました。震災前に当時の規制当局の原子力安全・保安院で、巨大津波対策を検討しようとしたところ、複数の幹部にとがめられたとする証言があったことが分かりました。 新たに公開された調書によりますと、2010年ごろ、当時、保安院・耐震安全審査室の小林室長が、過去に福島で起きた巨大な貞観(じょうがん)地震のリスクを検討し、新たな津波対策を提案しました。これに対し、保安院の複数の幹部から、「余計なことを言うな」「あまり関わるとクビになるよ」と言われたと証言していることが分かりました。室長は、2011年3月に東京電力の担当者に対し、新たな津波対策の必要性を伝えましたが、担当者は「2012年秋の土木学会の評価の見直しを待ちたい」と答えたということです。室長は「それでは遅い」と話しましたが、その4日後に東日本大震災が起きました。これで合わせて202人
<さよなら平成 激動の時代を振り返る(10)> 平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災、福島第1原発事故から間もなく8年。復興は進んでいるが、福島には今なお名古屋市とほぼ同じ面積、337平方キロもの帰還困難区域が広がる。人気テレビ番組「ザ!鉄腕!DASH!!」から生まれたDASH村も浪江町の帰還困難区域にある。土地を提供した三瓶宝次さん(82)、漬物名人で「お母さん」として登場した孝子さん(82)夫妻を訪ねた。 【写真】DASH村への道。正面の門の先に村がある(三瓶さん撮影) ◇ ◇ ◇ 福島市で避難生活を送る三瓶さん夫妻は2カ月に1度、浪江町津島の国道114号沿いにある自宅と、そこから2キロほど離れたDASH村を見回りに行く。114号は17年9月、通行規制が解除された。「除染してないし、線量も高いからなかなか行けないんですよ。夏は防護服着ると、暑くていられないから
日本テレビ系バラエティー番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の12月24日放送回で、東日本大震災の影響で未発表となっていた映像が公開されました。映像には、地震発生時の福島DASH村の様子や、収録中だったTOKIOメンバーらの姿も収められおり、ネットでは驚きの声が上がっています。 番組内容(「ザ!鉄腕!DASH!!」番組サイトから) 震災当時、TOKIOメンバーはDASH村での水作り計画を進めており、三瓶明雄さんらとともに雨どいや水瓶といった雨水のろ過に必要な道具を製作していました。地震はその最中に発生したため、それから約6年間、計画は頓挫したままとなっていました。 福島DASH村(「ザ!鉄腕!DASH!!」番組サイトから) 24日の回では、「福島DASH村 あの日の続きを…再び」と題して、東京・新宿での水作り計画を実施。DASH村で果たせなかった思いを新宿のビルの屋上でかなえるべく、メンバーが奔
【台北=田中靖人】東日本大震災から6年となった11日、台北市内の日本台湾交流協会台北事務所で「追悼感恩会」が開かれ、日台の関係者約80人が犠牲者に黙祷(もくとう)をささげた。 震災で台湾からは約200億円に上る義援金が寄付された。交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使に相当)は「台湾は心と心がつながった特別な友人だ」と改めて謝意を表明。台湾の対日窓口機関、亜東関係協会の邱義仁会長は「震災という不幸の中で、台日間の人々の感情(の交流)が想像を超えて深いことが発見できた」と応じ、復興に向け「がんばれ」と日本語でエールを送った。 式典には、総統の諮問機関「国家安全会議」の呉●燮秘書長らも参加した。 一方、この日は台北など3カ所で、蔡英文政権が掲げる2025年の脱原発目標の具体化を求めるデモも行われた。 ●=刊の干を金に
ノーベル文学賞作家でジャーナリストのスベトラーナ・アレクシエービッチさん(68)が28日、東京都府中市の東京外国語大で講演した。東京電力福島第1原発の事故で甚大な被害を受けた福島県を訪問したことを踏まえ「日本社会に抵抗の文化がないことを目の当たりにした」と語った。 アレクシエービッチさんは26、27日と福島県を視察し、事故の被害を受けた住民らの話を聞いた。講演では「何千人もが訴訟を起こせば国の態度も変わるだろうが、一部の例外を除いて、団結して国に対して自分たちの悲劇を重く受け止めるべきだと訴えるような抵抗がなかった」と指摘。「(旧ソ連時代から)全体主義の長い歴史を持つ私たちと同じ状況だ」と述べた。 アレクシエービッチさんはチェルノブイリ原発事故を巡る記録文学「チェルノブイリの祈り」などで知られる。東京外大などの招きで23日に来日。28日には、東京外大から名誉博士号を授与された。
東日本大震災の津波で74人の児童と10人の教職員が死亡・行方不明となった宮城県の石巻市立大川小学校をめぐり、児童23人の遺族が石巻市と宮城県に計23億円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁(高宮健二裁判長)は26日、市と県に約14億円の賠償を命じる判決を言い渡した。 判決は市の広報車が大川小付近で津波の接近を告げ、高台への避難を呼びかけた時点までには、教員らが大規模な津波の襲来を予見できたと指摘。その上で、被害を避けられる可能性が高かった学校の裏山に避難しなかったのは過失だと結論づけた。 大川小では、2011年3月11日、「帰りの会」の最中などに大きな揺れがあり、50分近くたった後、児童らは北上川にかかる橋のたもとの高台に向けて校庭から歩いて移動を始め、その直後に津波に襲われた。 最大の争点は「津波が大川小まで到達することを予想できたか」だった。 遺族側は、大津波警報を伝える学校敷地内の防災
「震災による死」に人々はどう向き合い、感じてきたか。この春に卒業する東北学院大の社会学のゼミ生たちがフィールドワークを重ねて、卒論を書いた。工藤優花(ゆか)さん(22)は、宮城県石巻市のタクシー運転手たちが体験した「幽霊現象」をテーマに選んだ。 50代の運転手は工藤さんに、こう打ち明けた。 震災後の初夏。季節外れのコート姿の女性が、石巻駅近くで乗り込み「南浜まで」と告げた。「あそこはほとんど更地ですが構いませんか」と尋ねると、「私は死んだのですか」と震える声で答えた。驚いて後部座席に目を向けると、誰も座っていなかった。 別の40代の運転手。 やはり8月なのに厚手のコートを着た、20代の男性客だった。バックミラーを見ると、まっすぐ前を指さしている。繰り返し行き先を聞くと「日和山」とひと言。到着した時には、もう姿はなかった。 工藤さんは3年生の1年間、毎週石巻に通い、客待ちの運転手をつかまえて
2015-03-11 妹は東電の賠償金で家を建てて、相馬市役所は新庁舎の建設工事中 私の実家は相馬市だけど、下の妹夫婦は義弟が第一原発に勤めていた。東電の子会社で第一原発の施設管理を行う警備会社に勤めていた。その関係で大熊町の第一原発のすぐそばに住んでいた。 4年前の3月11日、第一原発が施設警備どころの話ではなくなったので、妹夫婦と1歳の姪の3人は大熊町から避難することになった。 相馬の実家や妹への電話は全く繋がらず、東京の私は不安だったけれど、ネットしかやることがなかったので、Twitterで「原子力空母ロナルド・レーガンがキタ━(・∀・)━!!!!」とかつぶやいていた。 相馬の実家と1回だけ電話がつながって「実家は無事。妹一家は福島県田村市に避難している。義父は消防団なのでまだ大熊町に残っている」という情報を聞いた。その後、テレビをみていたら避難区域が拡大されて田村市も避難区域になっ
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東日本大震災の被災地3県の自治体が、失業対策の国の助成金25億円を使って震災後に誘致したコールセンターで、事業撤退や雇い止めが相次いでいる。東京の運営会社が開設した10カ所で計900人以上を雇う計画だったが、現在は約350人まで減った。震災後約3年で多くの雇用がなくなる異例の事態に、厚生労働省も事実関係の調査に乗り出した。 【写真】 このコールセンター運営会社は「DIOジャパン」(本社・東京)。岩手、宮城、福島の3県の自治体の担当者らによると、2012年末までに3県10市町にグループ会社を設立。電話によるホテル宿泊やチケット予約などを受け付けるセンターを開設した。 各センターは、失業者を雇うと人件費などの経費が支給される雇用創出基金を利用し、稼働前に行う約1年間の研修費用を基金から賄った。各センターが当初示した雇用規模は合計935人。実際は途中退職者を含め合計のべ1千人以上を雇い、基金
東日本大震災の津波で妻が死亡したのは、気象庁が津波の高さを過小評価した大津波警報を出したうえ、警報を伝える機器の整備が不十分だったからだとして、岩手県陸前高田市の男性が国と市に損害賠償を求める訴えを起こしました。 気象庁によりますと大津波警報の発表を巡って裁判が起こされるのは初めてです。 訴えを起こしたのは、東日本大震災の津波で海岸からおよそ1キロ離れた自宅にいた妻を亡くした陸前高田市の大森俊行さんです。 訴状によりますと、大森さんは妻が亡くなったことについて気象庁が地震発生から3分後に津波の高さを過小評価して高さ3メートルの大津波警報を発表したことや陸前高田市の情報機器の整備が不十分でその後、予想される津波の高さが引き上げられた際に情報が伝わらなかったことが原因だとしています。 そのうえで最初の段階で5.5メートルの防潮堤の高さを超える過去に経験がないような大津波が来ることが予想できる警
今日は 2011年3月10日 かもしれない。 東日本大震災が起こる1日前。 2011年3月10日と、3月11日のツイートをまとめました。 なんでもない日常のすぐ先に、非日常はあります。 地震はまた必ずやってきます。 この文章を読んだ1分後かもしれないし、 明日かもしれないし、10年後かもしれない。 だから、防災の準備がまだの人は今すぐに。 防災まとめ ツイート
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