ウクライナ政府の公式ツイッター動画に「ウクライナはレイシズムと戦ってる」と称して、ヒトラー、ムッソリーニと一緒に何と昭和天皇の顔まで出している。レイシスト認定とその様な歴史観だ。散々日本に支援を要請しておきながらこれだ。結局は、日… https://t.co/WckkNodseR
天正3年(1575年)、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍が戦う「長篠の戦い」が勃発した。 長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵) 歴史の授業を通じて教科書で学ぶだけではなく、日本の戦国時代をテーマにしたゲームでもたびたびモチーフとなるこの戦い。織田・徳川軍の用意した3000丁の新兵器「鉄砲」と「三段撃ち」なる戦法によって、武田の精鋭騎馬兵がことごとく討ち取られたという通説が長く語られてきた。 しかし近年では、小瀬甫庵が記した歴史書『信長記』と太田牛一の『信長公記』のさらなる比較などを経て、そもそも三段撃ちなど存在しなかったのではないかという新説が浮上している。 あるいは1900年代に生まれた「インターネット」。その起源である「ARPANET」は、核戦争が起きたとしても耐えうる通信手段としてアメリカ軍が軍事目的で開発したという話が伝えられてきた。 だが一方で、誕生に関わったロバート・テイラー氏
このブログは今年の4月に開設したばかりだったので終戦の週にこの映像を思い出し、改めて記事として紹介してみることにしたのだ。 2015年8月10日に記事を公開してからシェアやRTにより大きな反響を呼び、さらに映像の中に1948年11月公開の映画「四十三丁目の奇蹟」のポスターが貼られていることを発見した人から1948年秋の映像ではないか?という指摘が寄せられた。 その後、クルマやスクーターなどに詳しい人からも1948年説を裏付ける情報をもらったので、元記事のタイトルや内容は変更せずに文末に新しく判明した事実を追記するカタチをとった。1946年と思って書いたので終戦直後というタイトルにしたが後に1948年と年代特定されたので終戦から3年後ということになる。 私も新橋の撮影ポイントに行ってカメラ位置を検証したり音楽PVで使われていた映像の元素材を何度も見たりしていたが、いくつかの疑問があった。 【
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