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2000年代以降、日本のTVアニメにおけるクレジットアニメーションは単なる世界観のプレゼンテーションに留まらない映像表現を見せている。その背景には映像制作のデジタル化はもちろん、動画プラットフォームのコミュニティから輩出されたモーショングラファーがグラフィックとセルアニメを高度に統合したクレジットアニメーションを制作するようになった状況がある。本稿ではこれらのTVアニメのクレジットアニメーションがどのような歴史文脈の上にあるのか考察してみたい。 バナー画像:Oskar Fischinger, An Optical Poem, 1938 ◎モーショングラフィックスとは そもそも「モーショングラフィックス」という言葉を最初に用い始めたのは、CGアニメーションの父と呼ばれるジョン・ホイットニーだ。ホイットニーは第二次世界大戦後、爆撃や対空砲火の照準装置のメカニズムを応用したアニメーション装置によ
イギリスのレディング大学は書体デザインやタイポグラフィについての教育や研究が盛んなことで知られる。近年ではタイポグラフィへの関心の高まりを背景に、同校には世界各地から多くの学生が集まっている。同校のタイポグラフィコースの創設者であるマイケル・トワイマンはエフェメラ、つまり「日常生活で用いられていたなんでもない印刷物」の研究における第一人者としても知られている。トワイマンがエフェメラを通じて学生に伝えたい視点とはなんだったのか。その謦咳に接した著者がレポートする。 ◉トワイマンの教室 毎週月曜日の午後、教室に向かうと、寄せ合わされた机の上にはさまざまな歴史的な印刷物が密集した状態で並んでいる。「本日のテーマはなんだろう」と思いながら教室に入っていくと、コレクションのオーナーであるマイケル・トワイマン(Michael Twyman)が私たちの反応を待ち望むように背筋を伸ばして迎え入れる。 20
グラフィックデザインの環境はいまや完全にビッグ・テックが提供するアプリケーションに囲いこまれてしまったようにみえる。しかし近年、デザイナーたちはそのような枠組みにとどまらない自由なアプローチを探究し続けてきた。身体性やアナログツールの復権はその代表的な動向だといえる。また、3Dや動画をはじめとするデジタル環境のさらなる深部へと方法を拡張していく方向も見逃せない。そんななかデザイナーの石川将也はデザインツールを自らプログラムするというプロジェクトに取り組んでいる。本論ではその動機やプロセスを公開する。 ●ちょっと一緒にやってみてくださいThe Graphic Design Reviewの読者の多くは、お使いのパソコンにAdobe Illustrator(CC)がインストールされていると思います。そこで、この文章をパソコンで読まれている方は、本稿の導入のための小さなワークショップとして、以下の
テレビや新聞、雑誌といったメディアを舞台にした広告産業は20世紀末にそのピークを迎え、その後インターネットの普及とともにその構造を大きく変質させてきた。2009年の『広告批評』休刊は、その転換を象徴する出来事だった。現在、ネットの内外に広がる「広告」の全体像を捉えるのは、文字通り雲を摑むような話だ。広告の世界を観測し続けてきたジャーナリストの視点は、いまどこに向けられているのか。 「ポスターを盗んでください」という言葉が好きだった。1995年に出版された原研哉さんの本のタイトルだが、この言葉の中に、一枚のビジュアルで人を魅了すること、惹きつけながら何かを伝えることの面白さが詰まっている。広告でもエディトリアルデザインでも、魅力的な一枚絵と対峙した時の心躍る体験が、自分の原点の一つにあると思う。そして、大学でデザイナーの持つ言葉に触れて(私の大学には第一線で活躍するクリエイターがゲストで講義
印刷ワークフローのデジタル化とともにオフセット4C印刷の精度や効率も平均的に向上していった。その一方で、かつてはメジャーだった2色印刷は、あまり見られなくなっている。現実の光景と画面上のイメージとフルカラー印刷が地続きであるような幻想が支配する現在、印刷が印刷であることの意味を考える。 ◉2色刷りの冒険 LPが復活する時代が来るなどとは思ってもみなかった。いつの間にか僕自身、音楽を聴くのはLP再生かサブスクになってしまった。音楽は生活空間にも脳内にもいつでも流れ続けている。それでもサブスクでのおまかせと、棚からジャケットを抜き出してLP盤で音楽を聴くことには、聴取の質に厳然とした差がある。LPで聴くことは幸せで贅沢なことだ。そしてどこか「デジタル」への復讐のような気分もある。 LP復活の理由として、大判ジャケットの魅力がよく語られているが、たしかにそれもあるのかもしれない。LP時代、ジャケ
近年、デザインについては機能の側面ばかりが議論されがちだ。だが、デザインは人間や事物のさまざまな関係性の中にのみ存在し、ひとつのメカニズムや領域に収斂されることは決してない。グラフィックデザインにおいては、このような境界性がグラフィックという痕跡を媒介して人間の感性や想像の世界とも深く結びついている。 このようなグラフィックデザインの存在論をめぐるトークイベントが、今年(2023年)6月、奥村靫正、佐藤直樹両氏を迎えて開催された。 奥村靫正氏(1947-)は1970年代以降、YMOをはじめとする数々のミュージシャンのジャケットワークやブックデザイン、広告の分野でエポックメイキングな活躍をみせてきた。一方の佐藤直樹氏(1961-)は1990年代から『WIRED』日本語版をはじめとする出版、広告のデザインを手がける一方、社会や地域に関連したアートプロジェクトにも積極的にかかわってきた。 絵画や
グラフィックデザインについての定期刊行物は過去10年で急速に姿を消した。それらと入れ替わるように登場してきたオンラインジャーナルやブログも一部を除いて残っていない。SNSでは、もっともらしいアドバイスやノウハウ、あるいは個人的な体験が瞬間的に消費されるばかり。そんな状況下、デザイナーによってコンスタントに発行され続け、国際的な支持を受けている媒体『Revue Faire』の背景と可能性について紹介する。 紙の雑誌の衰退が叫ばれてからずいぶん経つ。実際、筆者が学生時代に読んでいたグラフィックデザイン誌の多くはもう存在しない。もちろん、このサイトの編集委員としてオンラインで情報を発信するメリットは十分に感じているし、まったくもって悲観的ではない。しかし、日々自動生成されたSNSのフィードを淡々とチェックしていると、書店でお気に入りの雑誌の新刊を見かけてワクワクしながらページを開く、あの喜びを懐
近年、デジタルデータでありながらも固有性を持つNFT技術が、新しいアートのプラットフォームとして大きな注目を集めている。NFT作品が高額取引されたことで投機的な話題が盛り上がりを見せるが、そのフィールドで活躍するアーティストやそのシーンの動きについては、なかなか全体像を捉えにくい。2000年代よりオルタナティブカルチャーの最前線を捉え、昨年、NFTをめぐるアーティストの実践をまとめた『THE NEW CREATOR ECONOMY』(ビー・エヌ・エヌ、2022)を刊行したデザイナー/編集者の視点から見えたものとは。 ●デジタルテクノロジーと表現の民主化 デスクトップ・パブリッシング(DTP)の登場がデザイン文化に与えた影響は計り知れない。その影響は今も続いている。デザインという領域への参入のハードルが低くなったことで多様な人材が流れ込み、新しいツールを用いて新たな表現を生み出す実験が行われ
デジタルツールの発展でグラフィックデザイナーが動画を制作することはごく自然の風景となった。だが、それらのツールが提供するシームレスさは、グラフィックと映像それぞれのメディア性の本質や、両者の横断によって見えてくるものからデザイナーを遠ざけている。グラフィックにおける時間的側面、あるいは映像におけるグラフィック的側面について、グラフィックと時間のあいだで活動を続ける岡崎智弘が考える。 ◉グラフィックデザインと時間 この10年ほどグラフィックデザインと映像デザインが交叉する領域に向き合ってきた。そのあいだに取り組んできたコマ撮りによるデザインの実践から、自分の目と身体で得た経験を軸に、いくつかの「時間」を手掛かりとしたグラフィックデザインとその周辺について、この機会に私なりに書いてみたいと思う。 まず、私が二つの領域を往復するようになった背景についてふれておきたい。私はもともと映像表現に興味を
昨年来、これまで学術的な研究領域で探究されていた画像生成AIが一般ユーザーが気軽に利用できるウェブ上のサービスとして公開され、さまざまな反響を呼んでいる。コンピュータが描いたとは思えない高品質なイメージや、人間の発想を超えた奇妙なイメージをSNS上で見かけた人も多いだろう。これらの画像生成AIの展開と、その社会的、文化的な問題をめぐる議論について俯瞰する。 ●ブレイクスルーの到来 画像生成AIはクリエイション全般の在り方を問い直すものとして、現在注目を集めている。とりわけ昨年(2022年)はその技術がインターネット上で公開されたり、アプリケーションによってより手軽に利用できるようになったことから「画像生成AI元年(*1)」ともいわれており、さまざまなサービスが提供されるようになった。以下では画像生成の歴史を簡単に踏まえつつ昨今の盛り上がりについて触れ、それらが具体的にデザインやイラストレー
20世紀末に発表された評伝によって近代デザイン史、タイポグラフィ史における重要人物のひとり、エリック・ギルの「不都合な真実」が明らかになった。以来、ギルの業績やその書体の運用をめぐって、さまざまな議論が交わされている。作者とその制作物は切り離して考えられるのか、否か。国際的に活躍する書体デザイナーが考える。 バナー画像:エリック・ギル、1908-9年頃(出典:Fiona MacCarthy, Eric Gill: Lover’s Quest for Art and God, 1989) 日本およびタイポグラフィの世界でエリック・ギル(図1)といえばエドワード・ジョンストンの弟子、そしてGill SansやJoanna、Perpetuaなど名作とされる書体の作者として有名だ。特に人気のGill Sans(図2)は、ジャンルとしてはヒューマニストサンセリフまたはジオメトリック(幾何学的)サンセ
虚実入り混じるあらゆる情報がグローバルかつ瞬時に駆け回るメディアに、私たちの日常は支配されている。しかし、そこに表れるイメージや記号は歴史の積み重ねの上に成り立っている。それらをいかに読み解けるかで、受け取る情報の解像度は大きく異なる。現代のデザイナーははたしてどれだけ自らが生産し、日々受け取っているイメージの内実を「理解」しているのだろうか? 今年、ロシアのウクライナ侵攻を受けて『戦争とデザイン』(左右社)を緊急出版した「デザインの歴史探偵」こと松田行正が、日々のニュースや映画の中に映りこんだデザインを読み解く。 バナー:1935年のハルビンの街頭に貼ってあったリシツキー・デザインのプロパガンダ雑誌『ヴェシチ』3号のポスター。 出典:映画『戦争と人間』第2部「愛と悲しみの山河」(日活、1971) ●アクションよりリアクション マーシャル・マクルーハンは『メディア論』の「テレビ」の項目で、
石川将也/小玉千陽/柿本萌/東泉一郎/三澤遥/加瀬透/脇田あすか/佐々木俊/正田冴佳/菊竹雪/田中良治/増永明子/味岡伸太郎 20世紀末に制作環境のデジタル化がすすみ、グラフィックデザインはAdobe社製を代表とするアプリケーション上で行われることが前提となってきています。しかし、デザインの仕事はアプリケーションやデスクトップで完結するものではなく、日常的な活動やコミュニケーション全体を通じて行われています。そこで本記事では基本的なグラフィック、ネット系のアプリケーション以外にその人が愛用している仕事道具について、13名のデザイナーにアンケートを実施。グラフィックデザインという仕事をより広い視点から見つめ直してみたいと思います。 FLUX社製レーザーカッター〈beamo〉 アクリル板や薄手の木材をカット・彫刻できます。Adobe Illustratorで作ったパスデータを、寸分違わず半立体
「デザイン」はつねに何かと何かのあいだにある中間的な領域だ。それは、さまざまな術や学を動員しながら、あるコトの 創出に向かう。文化人類学をひとつの補助線として、グラフィックデザインという方法をさまざまな実践に応用展開するデザイナーの考え方とは。 フリーランスとして働くようになる数年前、僕は「デザインで文化人類学をやる」ことに決めた。最近では「デザイン人類学」という言葉も聞くくらいデザイン界隈でも認知されてきた文化人類学だが、当時はまだまだデザインとは遠い存在だったと思う。僕自身も文化人類学の書籍を読んだり、映像人類学の映画を観たりしていたが、デザインとはかけ離れた世界だと考えてきた。しかし、その遠さが自分にとって重要だった。文化が異なる世界に触れ(ここまでのプロセスはデザインの仕事でも共通する部分はあった)、その世界を通して自身の視点や価値観がからりと変わってしまう(ここが当時のデザインの
近代イラストレーションの主要な領域であった「リアルさ」は、20世紀の映像・印刷メディアの発展や21世紀のネット時代の到来のなかで、その価値や役割を変化させてきた。戦後日本文化におけるリアル系イラストレーションの展開を辿り、「描くこと」の価値が多様化しているインターネット時代における「リアルさ」の行方を考える論考の後編。(前編はこちら) 大図解とボックスアート 前編ではデザイン業界と近い距離にある写実的なイラストレーションについて取り上げた。後編ではそれとは異なる文脈を持つリアル系イラストレーション、すなわち少年向けの出版物、プラモデルのボックスアートやゲームにおける写実的なイラストレーション、およびSNS定着以降の展開について論じていきたい。 戦前の大衆あるいは少年向けの通俗的な出版物では、伊藤彦造や椛島勝一のような描き手により劇的な場面をリアルな筆致で描くイラストレーション(「密描挿絵」
2022年初め、若手グラフィックデザイナー8名(小泉桜、竹内康陽、竹久直樹、綱島卓也、中村円香、中村陽道、星加陸、八木幣二郎)による企画展「power/point」が3331 Arts Chiyoda内のアートスペース・アキバタマビ21で開催された。 本展の中心になったのは、参加デザイナーによる自作ポスターだ。これ自体はデザイン展の形式としては珍しくない。しかし、同展が興味深いのは、これらのポスターのテーマが「展覧会の告知」であり、しかもその告知する内容が「当の展覧会そのもの」である、ということだ。 このような一種の自己言及的な構造を通じて、同展は何を問いかけようとしているのか? 新しい世代のデザイナーがデザインそのものについて正面から向き合ったこの挑戦的な試みについて、企画者である竹久直樹、中村陽道、八木幣二郎に話を聞いた。 (編集協力:西山萌 写真: 竹久直樹) 展覧会広報物とグラフィ
「時代」という不思議なメディアの存在を教えてもらったのは知り合いのデザイナーからだった。一見、新聞紙だ。しかし、大判のページを開くと写真、絵、書そして日中二カ国語の文章が渾然一体となって渦巻いている。そこには巷にあふれる小洒落たZineには見られない活力とざわめきがある。 ざっと読んだ(見た)ところでは媒体についての明確な説明もなく、クレジットされている作り手のこともよく分からない。またこの印刷物は無料であるが特定の配付場所(日本のみならず東アジア全域に広がる)か、発行者から直接購読することでしか入手できないという。 にもかかわらず、あるいはそれゆえに、「時代」にはすべてに答えが用意されている現代感覚では捉えられない魅力がある。これはどのような出版物なのか? 同紙の主宰者である写真家の富澤大輔、デザイナーの浅田農の両氏に聞いた。 写真提供:富澤大輔、編集協力:田端宏章 ●ある写真家とデザイ
多様な描き手とジャンルが織りなす現代のイラストレーション界。その動向をひとことで語るのは不可能だ。ただ近年、キャラクターイラストやシンプルな記号的なイラストレーションが前景化する一方で、近代イラストレーションの原点でありその後の主流のひとつだった写実的なイラストレーションが存在感を低下させてきたようにも思われる。写実的イラストレーションは、しかし、時代やテクノロジーに応じて独自のリアリズムを生み出しながら発展を続けている。その系譜と可能性について考える論考。 バナー画像(左上より):70年代末から80年代前半に刊行されたリアル系イラスト関連書 『コマーシャル・フォト別冊 イラストレーション2』(玄光社、1978年) 『精密イラストレーションの世界―テクニカルからスーパー・リアルまで』(グラフィック社、1981年) 『ザ・リアル・イラストレーション』(グラフィック社、1984年) 『ザ・リア
表示媒体が多様化した現代、その環境に順応するように、毎年さまざまな書体が生み出されている。書体の作り手は時代とともに変わり、デザインのプロセスも答え方もその時々で変わってきた。それでも人の手によって作り出されるということに変わりはなく、脈々と引き継がれてきたものがそこには確かにある。 書体やフォントというと、現在はデジタル書体を思い浮かべる人が多くなってきているのではないだろうか。時代を二十世紀後半に遡ると、日本においてこの役目は写植書体が担っていた。私が小学生の頃にはすでに一家に一台のパソコンという時代だったため、実作業で写植書体を使うという経験は残念ながらほとんど経験したことがない。しかし、書体を扱う業界にいると必ず耳にする写植書体というものに興味が湧かないはずがない。 写植時代の、とくにゴシック体を語るうえで外せないのが1970年代に発売されたナールとゴナだ。これら二つの書体は、過去
『グラフィックデザイン・レヴュー』のボードメンバーが、今どんな関心や問題意識をもっているかを肩肘張らず語り合う編集会議的座談会。第2回はゲストにデザイナー、イラストレーターとして活躍し、社会問題にも関心が高い惣田紗希さんをお迎えし、「グラフィックデザインとジェンダー」について話し合います。日本のデザイン教育の現場では近年、学生全体の約8割を女性が占める状況が長く続いてきました。このジェンダーバランスの背景にあるものは何か、それに対する産業や社会の潮流はどうなっているのか? 活動拠点の異なるメンバーそれぞれの視点をもとに行われた座談会の模様をお届けします。 (協力:西山萌) 室賀:今回のテーマは「グラフィックデザインとジェンダー」です。近年、ジェンダーに対する社会的な取り組みが世界各地で大きな潮流となっています。Yulia Popova『How many female type design
その後、2008年にパートナーのToan Vu-Huuと共に、グラフィックとタイポグラフィのデザインスタジオBaldinger-Vu-Huuを設立。私たちのコラボレーションは、1889年に設立されたフランスの印刷、タイポグラフィ、グラフィックデザインに関する最も古いデザイン学校であるEcole EstienneのVIコンペを勝ち取ったことから始まりました。小さいながらもスマートなチームで、ヴィジュアルアイデンティティ、エディトリアルデザイン、ポスターデザイン、サイン・案内システム、展覧会の展示デザイン、タイプデザインなど、幅広いプロジェクトに取り組んでいます。 これらの経験と知識は、教職を通じて共有しています。1995年から2002年まではローザンヌ(スイス)のECALで、2002年から2006年までベルン芸術大学(スイス)で、2013年から2015年までナンシー(フランス)のANRTでタ
近年、装幀家・菊地信義に迫ったドキュメンタリー映画が公開されたり、ブックデザインをテーマとした書籍が相次いで刊行されたりするなど、装幀周辺の動きが目立ってきている。 なかでも2020年に刊行された書籍『〈美しい本〉の文化誌——装幀百十年の系譜』は、明治から令和までの近代日本の装幀史をまとめた本として、新聞各紙の書評で紹介され話題となった。この本の著者である臼田捷治(うすだ・しょうじ)は、1999年から装幀に関する本を書き始め、日本タイポグラフィ協会顕彰・第19回 佐藤敬之輔賞を受賞。78歳となる現在も文字文化、グラフィックデザイン、現代装幀史の分野で執筆活動を続けている。 そんな臼田が執筆に専念する前、デザイン誌の編集者として過ごしていた頃の様子はあまり知られていない。彼がどのような経歴を歩み現在の活動に至ったのか、それと並行してデザインの世界の流れをどのように見てきたのか。 本インタビュ
90年代に普及してきたインターネットやPCは、新しいフロンティアとして実験的デザインの舞台となってきた。2000年代以降、ブロードバンド化や小型デジタル機器の登場により、ネットは現実社会の基盤そのものとなってゆく。だがこれは同時に、かつてのフロンティアが巨大な資本やサービスに占有されていくことも意味した。デジタルメディアのデザインの初期からその最前線において挑戦を続けてきたデザイナーは、この大きな変容のなかで何を考え、どのような動きを見せてきたのか。長年にわたってウェブを核としたデザインに取り組んできたデザイナーで『The Graphic Design Review』のアートディレクターでもある田中良治(セミトランスペアレント・デザイン)が、日本のデジタルデザインの世界を先導し続けている中村勇吾(tha ltd.)を迎え、等身大の視点で語り合った90分。 「12 o’clocks」が見せた
2021年初秋に、『CAPS LOCK: How capitalism took hold of graphic design, and how to escape from it』 が出版された。著者はオランダ人グラフィックデザイナーでデン・ハーグ王立芸術大学(KABK)のNon-linear Narrative 修士コース[*1]で教えているルーベン・ペーター(Ruben Pater)だ。彼が2016年に発表した『The Politics of Design』(BIS Publishers)において現代のデザインという領域に潜在する政治や権力の構造を明らかにし、世界中のデザイナーや学生に衝撃を与えた。私も同書によって目を開かれた読者の1人である。 続く『CAPS LOCK』が取り扱うのは、グラフィックデザイナーと資本主義の切っても切れない関係である。同書の発売前オンライントークイベント
1970年代半ばの登場以来、20世紀末の社会や文化に大きな影響を与えた家庭用ビデオテープデッキは、世紀の変わり目を境にしてデジタル動画技術の発展とともに衰退していった。しかし、80年代から90年代にかけて大量にリリースされたビデオには今では流通していない貴重な作品が数多く残されているほか、そのパッケージや広告にも独特の味わいがある。ビデオテープメディアに魅せられたデザイナーが語る、ビデオパッケージデザインの豊かさ。 2013年頃から数年間、少なくとも日米の一部の映画ファンのあいだでは、ビデオを回顧する動きが盛り上がった。ホームビデオの歴史や意義を振り返るドキュメンタリー映画『Rewind This!』(2013年、アメリカ)の存在を知ったときには、わたしもすでにビデオの魅力に取り憑かれており、翌年『VHSテープを巻き戻せ!』という邦題でこの作品が公開されるタイミングで自主雑誌『南海』を創刊
日本を代表するイラストレーター、グラフィックデザイナーの和田誠が2019年に逝去した。戦後をリードしてきたクリエイターたちの仕事をどう未来に引き継ぐのかは、いま大きな課題となっている。多摩美術大学アートアーカイヴセンターに寄贈される和田の資料整理に関わった著者が現場で感じた、アーカイヴに記録しえないものとは。 和田誠事務所は表参道や竹下通りから程よく離れた、落ち着きのある宅地に建っている。私が初めて訪れたのは、和田誠が逝去してから5カ月ほどが経過した2020年の3月のことだった。目的は多摩美術大学八王子キャンパス内にあるアートアーカイヴセンター(AAC)(*1)への事務所資料寄贈に関する打ち合わせに参加するためである。その後、私はおよそ1年にわたって断続的に事務所で作業をすることになるのだが、このエッセイでは実際の移管作業、和田の没後も業務を継続する事務所の様子、デザインとアーカイヴといっ
2000年代以降、情報技術の革新とともにUI/UXと称される領域が前景化し、また、ビジネスをはじめとする人間のあらゆる活動領域が「デザイン」の対象とされてきた。そのなかで「グラフィックデザイン」はすでに完成された古典的領域のようにみなされがちだ。だが、専門分化したようにみえるデザインの実践は、人間存在とその外部の間をとりもつ営みとしてすべて繋がっている。そして、グラフィックはその原初的かつ本質的なレイヤーだ。気鋭のデザイナーによるスリリングな試論。 ●未知と恐れ オープンで、だれでもアクセス可能な知識が提供されることが美徳だった頃からインターネットを触っている。自分にとってティムとはAppleの現CEO、ティム・クックの前に、WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)の考案者、ティム・バーナーズ・リーだった。今はどうやら、「そういう時期」ではないと知っている。情報にパーミッション(許諾・制限)をか
「グラフィックデザインには批評がない」とよく語られるが、ここで言うグラフィックデザインの批評とは何を指すのだろうか。2020年8月に「AIGA Eye on Design」に掲載されたジャレット・フューラーによる本記事は、1995年の『Eye』誌上でのリック・ポイナーとマイケル・ロックの対談を起点に、グラフィックデザインを取り巻くメディアの変遷を経た現在の「デザイン批評」について論じられた示唆に富むテクストだ。「グラフィックデザインの批評」は本当はどこにあるのだろうか。 私たちグラフィックデザイナーは批評と愛憎関係にある。私たちは、より多くの批評を求めながら、それが自分に向けられると文句を言う。一般の人びとに自分たちの仕事を理解してもらいたいのに、私たちの仕事についての記事が書かれると、それがどう間違っているかを批評してしまう。ビジネスの場で尊敬されたいと言いながら、「デザイン思考」のよう
『A *New* Program for Graphic Design』 著者:David Reinfurt 仕様:6 × 9インチ、256ページ, ソフトカバー 発行:Inventory Press デザイン:IN-FO.CO ISBN 978-1-941753-21-7 価格:25.00 USD 公式サイト:https://a-new-program-for-graphic-design.org/ 専門領域としての「グラフィックデザイン」は20世紀初頭から中期にかけて、同時代の技術や社会環境のなかでその専門領域としての基礎を固めてきた。それゆえに、この言葉にはまだどこか印刷を前提としたニュアンスがつきまとっている。その一方、近年市民権を得た「UI/UX」という言葉は、本質的に「グラフィックデザイン」の一形態であるにもかかわらず、デジタル情報機器に関係する領域だけを前提としている。 だが
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