沖縄全戦没者追悼式で「平和の詩」を朗読する相良倫子さん=沖縄県糸満市で2018年6月23日、津村豊和撮影 「生きる」 沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子 私は、生きている。 マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、 心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、 草の匂いを鼻孔に感じ、 遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。 私は今、生きている。 私の生きるこの島は、 何と美しい島だろう。 青く輝く海、 岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "キャラウェイ旋風" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年1月) キャラウェイ高等弁務官 キャラウェイ旋風(キャラウェイせんぷう)は、琉球列島高等弁務官、ポール・W・キャラウェイ(在任:1961年2月16日 - 1964年7月31日)がとった一連の強権発動政策のことである。彼の施策は、大きく政治面と経済面に分けることができる。 政治面[編集] キャラウェイは「沖縄の自治は神話にすぎない」と公言し、米国民政府の法令である布令を度々発動して、琉球政府の権限を制約してきた。そのため、親米路線をとっていた与党・沖縄自由民主党の党
特集 <1>「自治は神話」演説 1963年3月6日朝刊2009年3月6日 Tweet 「自治は神話である」―。1963年3月5日、キャラウェイ高等弁務官は那覇市内・ハーバービュークラブの「金門クラブ3月月例会」に招かれ演説。翌6日の琉球新報朝刊は1面で演説内容を次のように記す。 「自治とは現代では神話であり存在しない。琉球が再び独立国にならないかぎり不可能」「琉球政府への権限委譲は行政命令にも規定し、努力も払われているが現在の琉球政府の状態ではまだまだ」 演説は県民の「自治権拡大」の熱望に冷水を浴びせ、同日夕刊で立法院野党各党は猛反発した。 「沖縄が植民地であることを弁務官自身が裏づけた民主主義の否定」(安里積千代社大党委員長)、「弁務官は法なりの独裁支配、植民地支配」(岸本利実社会党政審会長)、「沖縄県民の解放の盛り上がりに弁務官が直接統治による弾圧に出ることを示す」(古堅実吉人
1952年に沖縄を日本の施政権から切り離したサンフランシスコ講和条約が発効した28日、政府が同日を「主権回復の日」として式典を開催することに抗議する「4・28『屈辱の日』沖縄大会」が宜野湾市海浜公園屋外劇場で開かれた。政府式典と同時刻の午前11時にスタートした大会には県議会各会派や市民団体の呼び掛けに応じた若者から高齢者まで幅広い年代が参加した。政府の姿勢に「がってぃん(合点)ならん」の思いを一つにした。 大会決議案は講和条約の発効で沖縄は米施政権下に置かれ基本的人権が奪われたと指摘。県民にとって「屈辱の日」とされる4・28に「主権回復」の式典を開くことは「再び沖縄切り捨てを行うものだ」と厳しく批判している。 会場は平和でみどり豊かな沖縄を表現する大会シンボルカラーの「緑」を身につけた参加者で埋め尽くされた。 県議会の喜納昌春議長ら共同代表や大会に賛同する市町村長を代表する稲嶺進名護
「女、子供に敵は何もしないから君たちは最後は手を上げて出るんだぞ」。沖縄戦の組織的戦闘が終結したといわれる1945年6月23日の直前、当時の島田叡(あきら)知事=兵庫県出身=から掛けられた言葉を胸に、県警察部職員だった山里和枝さん(85)=うるま市=は戦後67年間を生きてきた。島田知事はその後、沖縄本島南部・摩文仁(まぶに)の軍司令部壕(ごう)に向かい、消息を絶った。語り部として戦争の悲惨さを訴え続ける山里さんは言う。「知事は私に『絶対に生きろ』と言ったんです」 45年5月、沖縄守備軍司令部が置かれた首里にほど近い県庁壕に、海軍から県庁職員を看護要員として派遣するよう要請があった。県警察部職員だった山里さんはすぐに応じた。「どうせ死ぬ命。少しでも役に立って死にたいと思った」 だが、たどり着いた海軍壕(豊見城=とみぐすく=市)は「地獄」だった。病棟には薬も包帯もない。治療どころではなく、壕外
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