ホックシールドの「壁の向こうの住人たち」によれば、競争社会思想の信者は、自分が弱者になると、頑張っている自分が競争に負けるはずない、本来は競争に負けて転落すべき連中がズルをしているせいでこんな結果になったと考え、競争社会化をいっそう支持したり、弱者叩きに走ったりしがちだそうだ。
ホックシールドの「壁の向こうの住人たち」によれば、競争社会思想の信者は、自分が弱者になると、頑張っている自分が競争に負けるはずない、本来は競争に負けて転落すべき連中がズルをしているせいでこんな結果になったと考え、競争社会化をいっそう支持したり、弱者叩きに走ったりしがちだそうだ。
--------「俊明、何事にもすべて泣かざりければ、犬目の少将といわれけるぞ」(『十訓抄』) 邪眼と犬目は、ともに禍いをもたらすとされますが、その「機能」は正反対だと考えられます。 イタリアでは、邪眼のために絵画の絵の具がはげ落ちると言われており、そのために美術館では、絵を5秒以上見つめることを禁じています。 おそらくは、邪眼に見つめられた人も、同じ作用を被るというのでしょう。 見ることが何か、相手を傷つけるほどのものを「被視体」に与えること----邪眼の「機能」はここにあります。 それに対して犬目とは、涙を欠いた眼のことです。 その意味では、水に満たされた我々の眼球よりむしろ、その名の通りに内部が「空洞」なカメラ(写真機)により近しいのかもしれません。 その空隙を埋め合わすがごとく、犬目は「被視体」から何かを(例えば見つめられた者の魂を)受け取る、あるいは奪い取ります。 古代ギリシャの
きのうの記事のなかで、エヴリン・T・ベックという有名なカフカ研究者のインタビューが、粉川哲夫著『カフカと情報化社会』という本に収められていることに触れた。 カフカと情報化社会 [ 粉川哲夫 ] ジャンル: 本・雑誌・コミック > その他ショップ: 楽天ブックス価格: 3,132円 この本は、いまあいにく手元にない(ちょっと入手しにくいと思う)のだが、数年前これを読んだ時に、詳細なノートをとっていた。主眼は、ベックによる鋭利なカフカ批判の紹介である。現在の社会に問いかける迫力を持ってると思う。 一方、ぼくの感想は、今読んでも、そう悪くないというか、今よりちゃんとしたことを書いてる部分もあるほどなので、ほとんど修正せずに、そのまま下に載せようと思う。 ぼくがカフカを擁護してるのは、自分を擁護したい気持ちからでもあるのだろう。また断罪に同意してるのも、同じことである。 だがまた、12月6日付けの
LO (エルオー) 2009年 03月号 [雑誌]posted with amazlet at 09.01.15 茜新社 Amazon.co.jp で詳細を見る拡大写真。 昨日も書いたのですが、LO3月号のキャッチコピーにびっくりですよ。 温かい視線でたたずむ少女。 春の足音が聞こえそうな日本の風景。 しかし、「ロリコンに春は来ない。」 一見絶望的でネガティブとすら捕らえられるこの言葉。 でもものすごい熱さとパワーを秘めている気がするのもまたしかりです。 以前も「少女は 母であった」で色々妄想したのですが、今回も勝手にこの言葉の意味を探りながら、少女像とロリコンの信念や欺瞞の混じったところを考えてみたいと思います。 はい、自己満足です。 ●春は来ない。● 春自体は来ます。絵の通り。 しかし、ロリコンには春が来ません。 ということは、やはり「春」の語は「幸せ」とかの隠喩と取れます。あるいは「
前回のエントリの続き。 疑似科学批判に対して文句をつけるにあたり、僕はドーキンスを念頭においていますにゃ。自然科学という知的体系を高く評価するがゆえに、「神は妄想である」のドーキンスが「自然科学を宗教のようなイデオロギーにしてしまっている」点、つまり確かにある種の疑似科学批判において、宗教と科学の区別がつかにゃーようなことになっているという理路を以下に示してみたいと考えますにゃ。 参考として ドーキンスの「神は妄想である」への直接的な批判エントリをリンクしておきますにゃ 「神は妄想である」書評(1 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(2 - 地下生活者の手遊び 「神は妄想である」書評(3 - 地下生活者の手遊び 自然科学は公的原理 政治という社会行為においては、司法・立法・行政のいずれにおいても自然科学の知見をシカトすることは許されにゃー。 例えば、いつどこで大規模な地震がある
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