イタリアの美術史家・作家で、これまでに画家、カラヴァッジョらに関する著書の邦訳がある。本書はルネサンス期の彫刻家・画家、ミケランジェロになりきり、一人称で波瀾(はらん)万丈の人生と芸術への熱い思いをつづった伝記的小説だ。「ミケランジェロが家族や依頼主らにあてた多数の手紙が残っており、そこから文章の調子がわかる。こうした過去の記録に入り込んで書くというのは、初めての挑戦でした」90歳近い「わし
December 2, 2023 | Art | casabrutus.com | photo_Keisuike Fukamizu text_Toko Suzuki バンクシーの代表作《花を投げる人》は実はパレスチナ問題を描いた作品です。ガザ地区でイスラエル軍とハマスの戦闘が続く今こそ、バンクシーがパレスチナで活動してきた20年間をおさらいし、作品を通じて訴えてきたメッセージを改めて考えてみたい。2002年にバンクシーに直接インタビューし、『Casa BRUTUS』2020年3月号の特集「バンクシーとは誰か?」では、ともにパレスチナを取材した鈴木沓子さんにご執筆いただきました。 ヨルダン川西岸地区のベツレヘムに描かれた《花を投げる人》。圧倒的な武力を持つイスラエル軍の軍事占領と攻撃に投石で抗議したパレスチナのインティファーダ(抗議運動)をモチーフに、顔を半分隠した男の手に、石ではなく花
この連載では、数回前から美術史的著述における「触覚」をめぐる議論について辿り直している。辿り直す、といっても、それらの諸議論はわかりやすい一本の系譜を成しているわけではない。それぞれの著者は、別の著者の「触覚」の議論と共通の知識や前提から出発している場合もあるのだが、そこからどのように作品分析に展開していくのか見ていくと、この連載の他の記事でも述べてきたように、驚くほどの多様性に満ちていることがわかる。過去の「触覚」の議論を承けていることを明らかにしている著述でさえ、具体的な作品分析を通して、別の議論を生じさせていく。気づけばそのロジックは、影響源となったはずの著述におけるロジックとは別のものになっていく。過去の触覚論を辿り直すことで浮かび上がるのは、「系譜」と呼べるような大きな幹を持たない諸議論のつながりと対立である。それは一本の幹から派生する枝葉の構造というよりも、縦横無尽に広がりなが
なぜ美術は教えることができないのか 美術を学ぶ人のためのハンドブック 著者:ジェームズ・エルキンス 出版社:三元社 ジャンル:教育・学習参考書 「なぜ美術は教えることができないのか」 [著]ジェームズ・エルキンス 書名で提起されている問いはわたしにとってひときわ深刻だ(肩書を見てほしい、同類なのだ)。しかも著者は「結論」のなかではっきりと答えている――。「美術を教えるという考えは修復しがたいまでに不合理である」と。 もっとも、同様の問いは珍しくはない。だが、本書では「歴史」「会話」「理論」の3章をまるごと費やしてその困難さについての分析がなされる。さらにその不合理さを第4章の「批評」に集約させる。ただし、ここでの批評とは学生たちが教員の前で作品を発表する講評のことで、そこでのやりとりについて著者はみずからも勤める美術大学での一種、異様な実例を引きながら筆を進める。 ただし、その徹底ゆえだろ
「小さな芸術」 [著]ウィリアム・モリス 「小さな芸術(レッサー・アーツ)」とはなにか。歴史に名を残す絵画や彫刻、建築(グレーター・アーツ)に対し、名もなき職人芸、生活の美、つまりは民衆芸術のことを指す。だが、なぜ「小ささ」が強調されるのだろう。産業革命以降の生活と美意識の激変が、両者の関係を無残に破壊したからだ。民衆が日々の暮らしと労働とを美しく生きられることなく、芸術は成り立たない。盛況に見えるなら、芸術がたんなる贅沢(ぜいたく)品にすり替わり、金持ちの慰撫(いぶ)に成り下がったからだ。真の意味での芸術の復興のためには、この「小ささ」の復興が絶対に欠かせない。 強い信念に支えられたモリスの口調は、たいへん理想主義的だ。が、裏腹に随所で攻撃的な性質をはらむ。具体的には「そうした贅沢品のせいでわれわれの家はがらくたで一杯になって芸術は息もつまらんばかりになり」「新しい建設の始まりが明らかに
「目で覚える 動きの美術解剖学」 [著]ロベルト・オスティ ギリシャ彫刻の傑作の一つである神官・ラオコーン。制作時期は、紀元前2~紀元1世紀とされる。ラオコーンの表皮を剝(は)いだと仮定すると、その下から精密な解剖図が現れるという。上腕二頭筋の下にある小さな筋肉「烏口腕筋(うこうわんきん)」まで再現されているのだから驚きだ。 人体解剖が積極的に行われるのは14~16世紀のルネサンスである。しかし紀元前のギリシャ彫刻家は、それ以前から皮膚下の様相を正確に理解していた。彼らも解剖を行っていたのか? 真実は闇の中だ。 「解剖」と聞くと、すぐに医学を予想する。しかし、本書を通じ気付いた。解剖は医学だけのためにあらず。走ったり、笑ったり、考えたりする時、身体はそれに合わせた表情をとる。解剖とは、身体の多様な表情を誠実に汲(く)み取るための知性であり、私たちをあっと驚かせる芸術も、その基本の先に生まれ
本書には80篇(へん)ほどの短い文章が収まる。それぞれは大概、2、3の東西の絵画に触れつつはじまる。文章に添えてまず図像が置かれる。該博な知識で細部や背景が言及されるのは当然だが、一般の美術書と大いに異なるのは、絵画が鑑賞されているのではないことだ。では、なにが語られるのか。短いおよそ80の文章は、自身の絵画制作と並行して書かれた。とはいえ、制作の自己解説でもない。書くにせよ描くにせよ、人はま
ISBN: 9784622090939 発売⽇: 2022/11/22 サイズ: 22cm/331,7p 1960年代に大暴れした前衛美術集団〈ネオ・ダダ〉とは何だったのか。赤瀬川原平ら若きアーティストが結集し、破壊と創造を繰り返した先駆的活動を検証し、美術史としてとらえ直す… 「ネオ・ダダの逆説」 [著]菅章 日本の戦後前衛美術で際立つ存在感を示したネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)を論じた「日本で初めてのまとまった書籍」である。もっとも、最初に手掛けられた文章は1990年代末に着手されている。「あとがき」では本書の効果の半分が「図らずも熟成を待ちながら寝かせた古酒」に喩(たと)えられている。「新たに仕込んだ新酒」が「時空を超えてブレンド」されているからだ。 どのあたりが新酒なのだろう。著者はかねてネオ・ダダが「戦後美術史の徒花(あだばな)」になりはしないかと危機感を抱いて
「性と芸術」 [著]会田誠 美術館での展示に市民団体から抗議文が出されるなど、いくたの難儀と直面してきた連作「犬」。その作者が23歳のとき初めて描いたこれらの絵画について、制作の動機や意図について思い余すところなく書いたのが――帯に「ほぼ『遺書』である」とある――本書の根幹をなす第1章「芸術 『犬』全解説」である。 そもそも、画家はみずから自作の「全解説」など行わない。作品は作品をして語らしめるべきで、作者の饒舌(じょうぜつ)がどれほど「悪趣味」かは、本人も十分すぎるほどわかっている。それでもみずから「最悪のサンプル」と呼ぶ「全解説」を刊行したのは、「ネットに溢(あふ)れる悪評に対して作者としてきちんと応えよう」というのが大きかったようだ。 その意味では、本書を一種のSNS論と受け取ることもできる。というのも、SNS、とりわけここで問題となっているツイッターでの「呟(つぶや)き」はわずか1
著者:グリゼルダ・ポロック翻訳:萩原 弘子出版社:新水社装丁:単行本(356ページ)発売日:1998-02-00 ISBN-10:4915165809 ISBN-13:978-4915165801 内容紹介: 本書は、西洋近代美術の歴史が記述・記録されるなかで強力に働いている規範に含まれる偏りを明らかにする論争の書であり、フェミニストによる文化研究の理論的提起として、すでに一種の古典の位置を獲得している。…本書の価値は、議論の緻密さと、変革を展望する著者のはっきりと闘う姿勢にある。 フェミニズムの美術史学「フェミニズムで読む美術史」というのが、訳者の与えた本書(萩原弘子訳、新水社、一九九八)の副題である。 かつて「フェミニズム」といえば、たとえば、ドアを開けて女性を先に通してやるような男のことを指していたはずである。ちなみに、手もとにある国語辞典の「フェミニスト」の項目を引いてみると、三つ
あきらかに無理があるいいわけも、あまりに堂々と押し通されると、つい許してしまったり、呆れるのを通り越して笑ってしまったりもする。 『ヌー道 nude―じゅんとなめ子のハダカ芸術入門―』は、アートという名のいいわけが、いかに堂々と見逃され、いかに滑稽な事態を招いてきたかを教えてくれる対談集。語り合うのはこのお二人だ。 700巻を超えてなお増殖中のサグラダ・ファミリア的コラージュ大作“エロスクラップ”や、既存の裸体画に下着を上描きして脱構築する“穿かせたろう”など、やることなすこと現代アートの文脈に沿っていながら、それを指摘すると頑なに否定し、しまいには怒り出すみうらじゅん。本名の池松江美名義でどう見ても現代アートな活動を続けていながら、そこに触れると妙に恥じらい、ついには謝り出す辛酸なめ子――。共に武蔵野美術大学の出身で、絵画と文章を生業としながら、アーティストと呼ばれることを喜ばない。 酒
ルノワールといえば、日本では喫茶店の名前にもなっているくらいで、大人でも子供でも、教科書とかカレンダーとかいろんな形で彼の絵を見たことがあるだろう。僕自身は高校時代に父の持っていた画集で暖色と寒色を織り交ぜてキャンバス上に置いていくようなその筆致を見て、初めて絵の美しさの原理を理解したと思って喜んだし、絵画を志すようになるとそれを一生懸命に模倣しようとしたものだ。そういうわけで僕は彼の絵にとても親密さを感じているのだが、しかし絵描きやアート仲間の間でルノワールが好きだと言うと怪訝な顔をされるくらい評価は低いのだった。大抵の場合ルノワールは貶められて語られ、僕はそれに抵抗して彼の絵を擁護した。彼らからするとルノワールの絵は「あまい」ということらしい。確かにそれも分かる。モネやドガやセザンヌの方がどこかもっと崇高さや気品を感じる。しかし僕はずっと何かもっと別の魅力をルノワールの絵に感じていて、
著者:ヴィーチェスラフ・ネズヴァル,インジフ・シュティルスキー翻訳:赤塚 若樹編集:赤塚 若樹出版社:風濤社装丁:単行本(192ページ)発売日:2015-05-23 ISBN-10:4892193968 ISBN-13:978-4892193965 エロスの可能性を言語そして図像を通して探求する――日本で独自に編集されたチェコのシュルレアリストたちの散文作品集チェコ・シュルレアリスムには『ナジャ』に匹敵する作品がないと言われる。たしかに第一世代のメンバーのなかで詩人として知れられていたのはヴィーチェスラフ・ネズヴァル(一九〇〇‐一九五一)だけであり、彼の『プラハの散策者』(一九三八)はボヘミアの首都を舞台にした散文とはいえ、グループ脱退後に発表した作品ということもあり、ブルトンの著書のような強度は感じられない。だが数はそれほど多くはないものの、チェコのシュルレアリストたちも散文を残している
なぜ、本を読むのか? Why do we need to read books なぜ、本を読むのか?本書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれた本の中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の
なぜ、本を読むのか? Why do we need to read books なぜ、本を読むのか?本書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれた本の中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の
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