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古代に関するtweakkのブックマーク (235)

  • 蛇行剣、刀と剣のハイブリッド 富雄丸山古墳、30日から初公開

    奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半、円墳)で出土した国内最大の蛇行剣は、クリーニングの結果、剣の特徴である突起がある一方で、刀の特徴であるくさび形の柄頭が付いていたことが分かった。奈良県立橿原考古学研究所と奈良市教育委員会が26日、発表した。 同研究所は「剣と刀のデザインを併せ持つハイブリッド構造だ。古墳時代中期以降に盛んになる刀装具と剣装具はこのようなものから分化していく可能性が考えられる」としている。蛇行剣は30日から研究所付属博物館で初めて一般公開する。 剣身を収めるさやは広葉樹のホオノキ製で、全長約2.5mに復元できる。剣先側のさや尻には、さやが直接地面に付かないように保護するための細長い石突(長さ18.5cm)があり、刀剣のさやでは初確認とみられる。長大な蛇行剣を立てて使用することも想定した構造という。さや尻とさや口には黒漆が塗られ、文様もあった。 また剣を握る柄は全長38cmとみ

    蛇行剣、刀と剣のハイブリッド 富雄丸山古墳、30日から初公開
  • https://shosoin.kunaicho.go.jp/api/bulletins/23/pdf/0000000037

  • 江上波夫 - Wikipedia

    江上 波夫(えがみ なみお、1906年11月6日 - 2002年11月11日)は、日の考古学者。東京大学名誉教授。文化功労者・文化勲章受章者。 山口県下関市生まれ。1948年に「日民族=文化の源流と日国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表。その要旨は、「日における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろに達成された」と推論している(著書『騎馬民族国家』より)。 略歴[編集] 東京府立五中を経て、旧制浦和高卒業[1] 1930年(昭和5年)東京帝国大学文学部東洋史学科卒業[2]、東亜考古学会として中国の北京に渡る[3]。 1931年(昭和6年)東方文化学院研究員[4] 1935年から1941年まで内モンゴル・オロンスム遺跡で調査し、ネストリウス派とカトリックの教会等の跡を確認、また仏教などに関す

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    tweakk 2024/03/16
    “日本の古代国家の起源を東北アジアの騎馬民族に求めた壮大な説である騎馬民族征服王朝説は戦後間もない1948年、お茶の水駅近くの喫茶店に江上と岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の学究仲間3氏が集った座談会で披露”
  • 松岡正剛の千夜千冊

    このところ、ぼくは日を語ることが多くなっている。明治を問題にすることも徳川時代の儒学的日像に切りこむこともあれば、歌枕や世阿弥の工夫や茶の湯を通して「日という方法」にアプローチするときもある。3週間ほど前は石川啄木と権藤成卿と石原莞爾とパル判事を通して日を語ってみた。 それはいろいろなのだが、さて、「日」をいつの時代から語っていくかということになると、そのイメージとマネージの関係があまりに変遷してきたことを一貫して語りきることがむつかしく、ときに縄文を、ときに稲作を、ときに天孫降臨神話を、ときに「まつろわぬ神々」を、ときに倭の五王をというふうに、日自立の契機となったスキーマを分けながら問題を取り出して、これを突起した正の情報と穿たれた負の情報に腑分けしつつもなんとか串刺しにするという、そんな語りかたを何度も試みるというふうになってきた。 それらをそろそろ風変わりな書物にまとめて

    松岡正剛の千夜千冊
  • 奈良 富雄丸山古墳 ひつぎ調査 貴重な「三角縁神獣鏡」発見か? | NHK

    古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣など、貴重な発見が相次いでいる奈良市にある富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中から新たに3枚の鏡などが見つかりました。 このうち1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁神獣鏡」の可能性があるということで奈良市教育委員会はさらに調査を進めることにしています。 4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では、▼古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などの貴重な発見が相次いでいます。 ここで長さ5メートルを超える木製のひつぎも見つかり、奈良市教育委員会が2月上旬から土などを取り除き、中を調べていました。 その結果、▼直径20センチほどの青銅製の円形の鏡3枚のほか、▼「竪櫛」と呼ばれる竹製のくし9点が副葬品として納められていたことがわかりました。 鏡の中の1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁

    奈良 富雄丸山古墳 ひつぎ調査 貴重な「三角縁神獣鏡」発見か? | NHK
    tweakk
    tweakk 2024/03/14
    “頂上部の被葬者の活動を支えた腹心といえるような立場の人物だったのではないか。だからこそ頂上部の被葬者が持っていた超一級の宝物の一部を分けてもらい、副葬したと推測できる”
  • [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見

    1500年余り前に日からソウルに移ってきた技術者をはじめ、倭の移住民が工房などの生産活動に従事していた事実が明らかになった。最近、彼らが暮らしながら墓に使う葬儀用品として使ったと推定される日特産の土器が相次いで確認されたためだ。 大韓文化財研究院は6日、今日のソウルである漢城に百済王朝が都を置いた漢城百済時代(西暦18年~西暦475年)の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞(ソンナムシ・ポクジョンドン))から、古代日の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪(はにわ)」を初めて発見したと明らかにした。大韓文化財研究院は地中の文化遺産を発掘・調査する機関だ。 埴輪は5世紀前半の古代日の典型的な装飾型土器で、主に円筒形のものと動植物形の象形造形物、家などの住宅造形物などに分けられる。今回発掘されたのは円筒形で外壁に穴を開けた5世紀の造形物だ。 城南市福井洞の百済土器窯関連遺跡の廃棄

    [独自]韓国ソウル付近の百済遺跡で1600年前の日本人居住痕跡を発見
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    tweakk 2024/03/09
    “漢城百済時代の官営土器窯関連遺跡(京畿道城南市福井洞)から、古代日本の権力層の大型墓を飾った土器装飾遺物の「埴輪」を初めて発見”
  • 【光る君へ】第9回「遠くの国」回想② 直秀終焉の地、鳥辺野では夕顔、道長も葬儀 為時が中国語で詠んだ漢詩は花山天皇を励ます

    直秀ら散楽の人たちに手を合わせる道長とまひろ。道長はこれから約40年後、同じ鳥辺野に葬られることになります 京を代表する葬墓地・鳥辺野で逝った直秀 大河ドラマ「光る君へ」の第9回「遠くの国」。山の向こうの海の見える遠い国へ行きたかった直秀が、志半ばで別の「遠くの国」へと旅立ってしまいました。涙なしには見られないシーンでした。直秀が命を落としたのは京の東にあった鳥辺野(とりべの)でした。現在の京都市東山区内にあたり、鳥部野・鳥戸野とも記されました。吉田兼好が『徒然草』に「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらで」と書いたように、化野(あだしの)とともに京を代表する葬墓地でした。『源氏物語』でも、葬墓地としてこの地域は何度か登場します。光源氏の母の桐壺更衣、正の葵の上らが葬られました。 鳥辺野に連れてこられた直秀たち。この時、その命運はもう尽きていたとは。 夕顔の亡骸と面会、手を取り声

    【光る君へ】第9回「遠くの国」回想② 直秀終焉の地、鳥辺野では夕顔、道長も葬儀 為時が中国語で詠んだ漢詩は花山天皇を励ます
    tweakk
    tweakk 2024/03/05
    当時の漢音読みと本居宣長以降の漢音読みもきっと違うんだろうなあ。“大学寮では、「音博士」という中国音教育を専門とする教官が配置され、寮内の試験でも漢詩文の音読が課せられていました”
  • 陰陽道 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年1月) 陰と陽。太極図。 晴明紋。 陰陽道(おんみょうどう、おんようどう、いんようどう)は、陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術である[1]。 陰陽道は、陰陽寮で教えられていた天文道、暦道といったものの一つであり、これら道の呼称は、当時の国家機関の各部署での技術一般を指す用語であり、思想ないし宗教体系を指す用語では無い。 概要[編集] 陰陽道は、古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行思想を起源として日で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。 陰陽道に携わる者を陰陽師と呼んでいたが、後には陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために祓

    陰陽道 - Wikipedia
    tweakk
    tweakk 2024/03/03
    “道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術や、泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼…なども取り入れ、日本の神道と相互に影響を受けあいながら独自の発展を遂げた”
  • 古代中国の伝承に残るパンダのような不思議な動物とは? 文献からたどるパンダの足あと | AERA dot. (アエラドット)

    中国四川省にある中国ジャイアントパンダ保護研究センターのパンダ(写真:VCG/Getty Images) 新聞の書評に取り上げられるなど反響を呼び、発売即重版が決まった『パンダとわたし』(黒柳徹子と仲間たち・著)。の編集過程では、たくさんの取材やインタビューを行いましたが、収録しきれなかったエピソードも多々あります。今回は、には未収録のインタビューを特別に公開! 中国文学が専門で、パンダファンという東京大学附属図書館特任研究員の荒木達雄先生と、古い文献からその存在をたどってみてわかったこととは? 【写真】パンダと混同された動物とは? ■パンダらしき生き物が文献に登場するのは3世紀ごろ ――今は、中国の動物園などに行くとジャイアントパンダ(以下、パンダ)は「大熊(ダーションマオ)」「熊(ションマオ)」と呼ばれていますが、昔からこのような呼び名が使われてきたのでしょうか。 どちらも古く

    古代中国の伝承に残るパンダのような不思議な動物とは? 文献からたどるパンダの足あと | AERA dot. (アエラドット)
  • 古代の遊牧民が築いた帝国の秘密、DNAで解明

    (CNN) ある遊牧民の帝国が、紀元前200年から3世紀にわたりアジアの平原を支配していた。彼らはシルクロードで交易を行い、精巧な墓地を死者のために築き、馬を駆って遠方の土地を征服した。 匈奴(きょうど)の名で知られるこの帝国と強力なライバル関係にあった古代中国の王朝は、防衛のため万里の長城を建設。その一部は現在も残っている。 しかし、当時の歴史を伝える文字史料は中国の年代記作者による記述のみ。その中で匈奴は蛮族とみなされているが、帝国や民族の実像は長く歴史の陰に閉ざされてきた。 だがここへ来て、古代のDNAの証拠と近年行われた考古学上の発掘の成果を組み合わせることにより、あの時代最も強大だった政治勢力の一つにまつわる秘密が明らかになろうとしている。 国際的な科学者チームがこのほど、匈奴の支配地域の西側にある墓地2カ所についての遺伝子研究を完了した。現在のモンゴルに位置するこれらの墓地は、

    古代の遊牧民が築いた帝国の秘密、DNAで解明
    tweakk
    tweakk 2023/04/20
    "両方の墓地に埋葬された17人の遺伝子情報を解析。「極めて高いレベルの」遺伝的多様性があることを突き止めた。これにより匈奴の帝国は多民族、多文化、多言語だった公算が大きくなった"
  • Römisches Verfassungsrecht – Wikipedia

  • 古代バビロニアの文章を解読できるAIを開発。ギルガメシュ叙事詩の一部や賛歌を解読 : カラパイア

    ドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学(LMU)の研究チームは、古代バビロニアの楔形文字の難しい文章を解読できるAIシステムを開発した。 「Fragmentarium」というこのアルゴリズムは、ギルガメッシュ叙事詩を含む、人類がこれまでに書いたもっとも古い物語の断片をつなぎ合わせて解読することができるという。 LMUでは、2018年から、現存しているバビロニアの楔形文字の石板すべてをデジタル化するプロジェクトを行っている。

    古代バビロニアの文章を解読できるAIを開発。ギルガメシュ叙事詩の一部や賛歌を解読 : カラパイア
  • 類例なく「国宝級」発見 「盾形銅鏡」出土 奈良の富雄丸山古墳 | 毎日新聞

    出土した鼉龍文盾形銅鏡。盾と鏡を合わせたようなデザインで、鼉龍文や幾何学文様など精緻な装飾が特徴的。中央の丸い突起はひもを通す「鈕」=奈良市教委提供 奈良市にある国内最大の円墳、富雄丸山古墳(4世紀後半、直径109メートル)の未盗掘の埋葬施設から、過去に類例のない盾形の銅鏡(長さ64センチ、幅約31センチ)と蛇行剣と呼ばれる鉄剣(全長237センチ、幅約6センチ)が出土した。いずれも国産とみられる。盾形銅鏡は国内で出土した銅鏡で最も大きく、裏面には精緻で複雑な文様が施されていた。蛇行剣は曲がりくねった刃が特徴で、古墳時代の鉄剣としては東アジア最大、蛇行剣では国内最古という。25日、発表した市教委と奈良県立橿原考古学研究所は「古墳時代の金属器の最高傑作」と評しており、国宝級の発見といえる。 埋葬施設は、墳丘から北東方向にせり出した「造り出し」で見つかった。木の幹を二つに割り、内部をくりぬいて被

    類例なく「国宝級」発見 「盾形銅鏡」出土 奈良の富雄丸山古墳 | 毎日新聞
  • 馬・車輪・言語 - Wikipedia

    『馬・車輪・言語 文明はどこで誕生したのか』(原題:The Horse, the Wheel, and Language: How Bronze-Age Riders from the Eurasian Steppes Shaped the Modern World)は、2007年に出版されたアメリカの人類学者デイヴィッド・W・アンソニーの著書。アンソニーはインド・ヨーロッパ語族の起源と、ポントス・カスピ海ステップから西ヨーロッパ、中央アジア、南アジアへの拡散を調査した。彼は馬の家畜化と車輪の発明がいかにしてユーラシア・ステップの牧畜社会を結集し、印欧社会を優位にした青銅鋳造技術および保護者と庇護者からなる新しい社会構造の導入に繋がったかを示している。書は2010年のアメリカ考古学協会賞を受賞した[1]。 概要[編集] アンソニーが提唱するインド・ヨーロッパ語族の拡散(図にいくつかミスが

    馬・車輪・言語 - Wikipedia
  • 藤村シシン NHK講座再販中 on Twitter: "疑問を持って調べるの素晴らしい。 連ツイに文献一覧出すから良かったら読んでください!多分、古代ギリシャ(スパルタ)の資料問題の基礎を学んでないため、基本的な思い違いをしてるのかと思われます(「リュクルゴス時代の古文書」とか)。 → https://t.co/bpwL5oO7bx"

    疑問を持って調べるの素晴らしい。 連ツイに文献一覧出すから良かったら読んでください!多分、古代ギリシャ(スパルタ)の資料問題の基礎を学んでないため、基的な思い違いをしてるのかと思われます(「リュクルゴス時代の古文書」とか)。 → https://t.co/bpwL5oO7bx

    藤村シシン NHK講座再販中 on Twitter: "疑問を持って調べるの素晴らしい。 連ツイに文献一覧出すから良かったら読んでください!多分、古代ギリシャ(スパルタ)の資料問題の基礎を学んでないため、基本的な思い違いをしてるのかと思われます(「リュクルゴス時代の古文書」とか)。 → https://t.co/bpwL5oO7bx"
  • 【陰陽道とは】思想的な特徴から展開の歴史までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド

    を指します。 日で独自の発展を遂げた自然科学・天文・暦・呪術を体系化したものであり、単なる学問に留まらず政治に取り入られることも多々ありました。 日中世以降は公的に衰退したものの、冠婚葬祭を執り行う際の吉凶、方角、相性や、加持祈祷等に大きく影響しました。現代でも名残りとして、結婚・葬式などの日選びや、建築の方忌 、星占いなどに反映されています。 1-1:陰陽道の思想・特徴 では、陰陽道はどの様にして日に伝わり、発展していったのでしょうか? 1-1-1:陰陽道の起源について そもそも、陰陽道の起源は古代中国にあった「陰陽思想」と「五行思想」(陰陽五行思想とも)とされています。 「陰陽思想」と「五行思想」は、厳密に言うとそれぞれ別個の思想であり、陰陽思想が先に成立したと考えられています。そのすぐ後に五行思想が起こり、比較的早い段階で両者が結合しました。 ■ 陰陽思想 陰陽説を唱えた人物は

    【陰陽道とは】思想的な特徴から展開の歴史までわかりやすく解説|リベラルアーツガイド
    tweakk
    tweakk 2021/09/08
    "観勒"、"僧旻"
  • 諏訪春雄通信 43

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    tweakk 2021/09/08
    「唐では、秘書省の下部組織として暦・天文・漏刻の3部門をあつかった太史局があり、太常寺の下部組織に卜占と方術をつかさどった太卜署が存在。…日本では統合して陰陽寮という役所をつくった」
  • 初代ローマ皇帝をかたどった大理石の頭部像、イタリアで発見 時期は2000年前

    初代ローマ皇帝アウグストゥスをかたどった頭部像が、イタリア南部の町で出土した/MIBACTmolise/Facebook 初代ローマ皇帝アウグストゥスをかたどった2000年前の大理石の頭部像が、イタリア南部モリーゼ州のイゼルニアで発見された。 考古学者のフランチェスコ・ジャンコラ氏がこの類いまれな発見をしたのは、2013年の豪雨で崩れた中世の壁を修復していた時のことだった。 ジャンコラ氏はイゼルニアの地元自治体のために修復作業に携わっていたが、6日のCNNの取材に語ったところによると、これほど大きな発見があるとは予想していなかったという。 「壁の後ろを掘っていた時に、地面の色が変わったのが見えた」(ジャンコラ氏) 「そのまま精密なこてで掘り進めたところ、大理石の塊が出てきた。髪型や目の形と彫り方から、アウグストゥス像の頭部であることがすぐに分かった」 発見を受け、ジャンコラ氏は直ちに当局や

    初代ローマ皇帝をかたどった大理石の頭部像、イタリアで発見 時期は2000年前
  • 古代エジプトを征服した「ヒクソス」は野蛮な侵略者ではなかったと判明!? 平和に暮らす移民の反逆か - ナゾロジー

    世界史のエジプト編に登場した「ヒクソス」という民族を覚えているでしょうか。 彼らは、紀元前18世紀頃、エジプトに侵入して当時の王朝と戦い、紀元前1650年頃に政権を奪取しました。ヒクソスが建てた王朝は「エジプト初の異民族王朝」として歴史に名を刻み、約100年の間、エジプトを支配します。 ところが今回、英・ボーンマス大学の最新研究により、ヒクソスはエジプト外部からの侵略者ではなかった可能性が浮上しました。 ヒクソスによるエジプト征服は、内部からの犯行だったのかもしれません。 「ヒクソス」はどんな民族?そもそもヒクソスの正体は、多くが謎に包まれています。 定説では、西アジアにルーツを持ち、ヒッタイトやミタンニといった民族の大移動に追われる形で、エジプトに移動しました。ところが、武力に優れるヒクソスは、BC1650年頃にエジプト中王国を叩いて、「エジプト第15王朝」を建てます。 シリア・パレスチ

    古代エジプトを征服した「ヒクソス」は野蛮な侵略者ではなかったと判明!? 平和に暮らす移民の反逆か - ナゾロジー
  • 3770年前のレシピを再現 古代都市バビロンの料理が意外と凝ってておいしそう

    ロックダウンで外出自粛生活のなか、紀元前1750年ごろのメソポタミア古代都市バビロンの料理を再現した様子を英ケンブリッジ大学の大学教授がツイートし、「メソポタミアの生活を知れてとても感動した」といった感想などたくさんの注目を集めました。 再現料理を投稿した大学教授のビル・サザーランドさんによると、レシピは石板に記録されているものとのこと。実際に石板を読んで調理したわけではなく、研究者による書籍「Ancient Mesopotamia Speaks: Highlights of the Yale Babylonian Collection」を参考にしたそうです。 レシピを記した石版 こちらのに掲載されているそう サザーランドさんが手がけた料理は全部で4種類あり、彩り豊かで、古代料理に対してなんとなく持っていた、質素で味気ないというイメージを変えるような仕上がりです。 きれいな彩りの料理

    3770年前のレシピを再現 古代都市バビロンの料理が意外と凝ってておいしそう