近藤誠氏(矢島康弘撮影)大学で医学部を選んだのは、サラリーマンを続ける自信がない、という消極的な理由だった。仕事といえば、誰にも頭を下げることのない開業医の父親の姿が浮かんだ。 ▼慶応大学医学部では、ボート部と茶道部の活動に打ち込んだ。卒業前にすでに医学部の同級生と学生結婚して子供もいた。子供の世話を考えると、当直が少ない方がいい。こんな経緯で放射線科医になった近藤誠さんの名前が知られるようになるのは昭和63年、月刊「文芸春秋」に寄稿してからだ。 ▼「乳ガンは切らずに治る」と題して、すでに海外で普及していた乳房温存療法を紹介する内容だった。温存療法と治癒率が同じなのに勝手に切り取るのは外科医の犯罪行為と指摘した。当然、乳がんの外科医は猛反発した。