渋沢は約500の企業の創設に携わった実業人だが、身分制度、男尊女卑などの悪しき習慣、制度の撤廃など社会生活の進歩の妨げになっている課題にも強い関心を持って取り組んだ。今回のテーマ、慈善事業への取り組みもその一つだ。 国を豊かにするためには、社会を構成する人々が品位、礼節を保ち生きていけるような社会環境が必要だが、その実現は絵に描いた餅に似ている。理想通りには中々いかない。 世の中には豊かな生活ができる少数の恵まれた人、様々な理由で貧しい生活を強いられる人、体が弱く働けない人、災害や貧困、両親の早死などで社会に放り出される孤児など多くの弱者が社会の底辺に沈み、貧者の吹き溜まりになっている。 実業人、渋沢の関心はこのような社会の底辺に沈む人たちの救済にも注がれ、並々ならぬ決意と努力でその解決に取り組んだ。 その一つが養育院である。渋沢著の「青淵回顧録」によると、養育院創設のいきさつをあらかた次
『渋沢栄一伝記資料』とデジタル化の現在 渋沢栄一記念財団情報資源センター・茂原暢(しげはらとおる) ●はじめに 渋沢栄一(1840年-1931年)にとって2021年は特別な年となった。没後90年であることに加え,NHK大河ドラマ「青天を衝け」によりその人生が約1年間にわたり描かれた。そして彼の記録をまとめた『渋沢栄一伝記資料』は刊行完結から50年を迎えたのである。本稿では『渋沢栄一伝記資料』のデジタル化プロジェクトについて紹介する。 ●『渋沢栄一伝記資料』とは 『渋沢栄一伝記資料』(以下「『伝記資料』」)は,渋沢の伝記が多数書かれたとしても,それらが必ずしも正確さや詳細さにおいて十分ではないとの認識から,伝記を書くための資料を広く収集・編纂した「資料集」である。渋沢栄一記念財団(以下「財団」)の前身となる竜門社の企図により1932年に編纂開始,太平洋戦争による中断を挟み,同社の後継となる渋
昭和初期、悪化する日米の国民感情を改善するため、事業家だった北区ゆかりの渋沢栄一と米国人宣教師が中心となり、両国の人形を贈り合う交流事業が行われた。渋沢の活躍と、米国から贈られた「青い目の人形」のその後を描く舞台「渋沢栄一と青い目の人形」が二十日、北とぴあ(王子一)で行われる。 二部構成で第一部は渋沢の半生を、二部では渋沢が「日本国際児童親善会」を立ち上げて行った交流事業や、戦時中に人形が敵国の人形だとして廃棄された不幸を経て、今も続く人形を通じた日米の交流を描く。 プロアマ合わせて百人が出演。脚本などを手がけた区内在住のシンガー岡美保子さんが、渋沢が書き残した和歌に曲をつけて歌う。岡さんは「渋沢は『平和の心は子どもから』という思いで交流を始めた。時代が変わっても忘れてはいけない思いを感じてもらえれば」と話している。
本学は、「地(知)の拠点整備事業」(COC事業)により、地域貢献に取り組んでいます。 このたび、本事業地域づくりワーキンググループでは、学生の実習課題の成果として、渋沢栄一の足跡をたどる静岡町歩きマップを作成しました。 渋沢は「日本近代資本主義の父」といわれ、数多くの企業設立に関わったのみならず、慈善事業や民間外交に尽力しました。渋沢は明治初め静岡藩での「商法会所」設立により実業家として第一歩を踏み出しました。そのゆかりの場所について、学生が調査しながら地図にまとめました。 一人でも多くの方々に、渋沢の足跡について親しみを持っていただければ幸いです。 本マップは、以下よりダウンロードが可能です。 なお、本マップは、静岡県立大学 令和2(2020)年度 地(知)の拠点(COC)事業 地域を志向した研究の研究費を活用して作成しました。 【関連リンク】 完成!「新一万円札肖像の渋沢栄一の足跡をた
第2章 産業 3. 実業家たちの日仏交流 慶応3(1867)年正月、後に「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、将軍徳川慶喜(1837-1913)の名代としてパリ万国博覧会に出席する徳川昭武(1853-1910)に随行し、フランス郵船アルフェー号で横浜を発った。昭武は、幕府崩壊のため帰国するまで、約1年半にわたってフランスで留学生活を送った。昭武一行の会計役を担った渋沢は、滞在を世話した銀行家ポール・フリュリ=エラール(1836-1913)から、資本主義経済の仕組みを学んだ。特に、フリュリ=エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分制の打破と実業の地位向上の必要を痛感したと後年述べている。帰国後の渋沢は、大蔵省入りして株式会社制度や通貨制度の確立に努めるとともに、明治6(1873)年には実業界に身を投じて数多くの会社を作り上げた。 渋沢や稲畑勝太郎らフランスに学んだ実業家たちは、日仏会館
2019年3月29日作成 東京帝国大学では、1917年に米国銀行家A.B.ヘボン氏が国際親善に関する講座新設資金寄付を申出、渋沢栄一の斡旋でヘボン氏寄付講座が設置されました。1928年には新聞学講座を設置するための寄付を栄一がとりまとめ、翌年新聞研究室が開設されました。また1909年の(財)和仏法律学校法政大学創立30周年記念会で、栄一は教育について演説を行いました。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く