やってもみないで! なんて、思ったり呟いたり言ったりすることは結構多いよなあ、と思った。わりとすぐ言いたくなるようになった。言いたくなる習性がついてしまった、と言ってもよい。 やりもせず、触れもせず、なんていうか、遠目でなんとなく見えるだけのところの情報、とか、ジャンル等の印象を利用しただけの類推とか、そういう感じで、「詳しく知らない何か」を判断していることって、沢山あって、まあ、見かけることも、油断して自分でやってしまっていることもかなりあって、けれど、後々そのことによる錯誤や誤解に気づけることも多くて、なのでまあつまり、その反省もこめて、やってもみないで……、って思うことは多い、のだった。深い反省が脳裏に刻まれてしまっている、と言ってもよい。刻まれてしまうくらい、やってもみようともせず、文句言ってたり嫌ってたことがあって、けどまったくもって間違ってたなあ、と思ったことが多いのだった。
紹介 ボッティチェッリの神話画《ウェヌスの誕生》と《春》を対象に、古典古代のイメ ージがルネサンス期のイタリアにおいていかに再生したのかを、古典文学および同時 代の文学との連関の中で読み解き、ボッティチェリ研究のみならず、ルネサンス美術 研究全体にたいして新たな方向性を提示した、ヴァールブルクの記念碑的学位論文。 目次 サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》 序 言 第1章 《ウェヌスの誕生》 付 論 失われた《パラス》 第2章 《春》 第3章 絵画の外的原因――ボッティチェッリとレオナルド 四つのテーゼ ボッティチェッリの《パラス》について――『美術』第五巻第一一‐一二号(一九〇二年)からの抜粋 サンドロ・ボッティチェッリ 原 註 補 註 図版一覧 解 題 アビ・ヴァールブルクとボッティチェッリ研究 訳者あとがき 人名/著作名索引 前書きなど この論考でおこなわれる探究と
Libroドキュメンタリー・エッセイ・その他黄檗宗の僧侶が明治三十年代に鎖国状態のチベットに密入国し、その見聞をつぶさに綴った冒険旅行記の現代語訳抄録である。河口慧海という名前は、秘境旅行家の先達としてアウトドア旅行記などで名前を見ることがあり、なんとなくは知っていた。チベットに入ったということで密教方面の僧侶だと思っていたが、黄檗宗(禅宗)だったとは意外だ。経典を研究する過程で、本当の経典はインドにも中国にもなくチベットにのみ残っているらしいということで、何としてもチベットで入って研究してみたいと思い究め、止める人々を振り切って実行に移したそうである。インドに何年間か滞在してチベット語を覚え、徐々に準備を整えた上で、さほどの装備もないままヒマラヤを越えてチベットに入り込んだというからその行動力は凄まじい。荒涼とした道を行く僧侶ということで何となく西遊記の玄奘三蔵の取経の旅を思い起こしたり
ルネサンス期、清澄なる古代復興の影で〈グロテスクなもの〉は産まれた。怪物的・遊戯的なるものの系脈を美術史の碩学が解剖する。図版多数。 シリーズ:ちくま学芸文庫 1,430円(税込) Cコード:0170 整理番号:シ-16-2 刊行日: 2004/04/07 ※発売日は地域・書店によって 前後する場合があります 判型:文庫判 ページ数:304 ISBN:4-480-08839-3 JANコード:9784480088390 在庫 ×
(松籟社・2100円) ◇不条理な死に打ち克つ文学の力 ダニロ・キシュ(一九三五-八九)は、旧ユーゴスラヴィア出身のユダヤ系作家である。これまでにも二冊、『若き日の哀しみ』と『死者の百科事典』が山崎佳代子さんのみずみずしい訳文によって日本に紹介されていて(どちらも東京創元社刊)、すでに知る人ぞ知る存在になっているはずだが、今回新たに訳出された長編小説『砂時計』は、キシュを多少なりとも知っている読者を驚かせ、当惑させるような強烈なビジョンと、たくましい小説的構築の技を示す作品になっている。 『若き日の哀しみ』が「抒情のひと跳び」で少年時代にさかのぼって、淡い水彩画のような美しい光景を描き出していたとすれば、『死者の百科事典』はロマネスクの香りの強い幻想短編集だった。それに対して、『砂時計』はもっと重苦しく、出口がいつまでたっても見えてこないカフカ的悪夢の世界に読者をさまよわせる。 小説の冒頭
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く