もしもパレスチナの難民キャンプで傷付いた子どもの傍らにいたなら、私たちはその手をとるだろう。ベツレヘムの街で自爆に赴く青年が目の前にいたら、彼の行く手を遮るだろう。だが私たちはそこにいない。 小説を書き、読むという営みは理不尽な現実を直接変えることはない。小説は無能なのか。悲惨な世界を前に文学は何ができるのか。古くて新しい問いが浮上する。 ガザ、ハイファ、ベイルート、コンスタンティーヌ、フェズ……、様々な土地の苛烈な生を私たちに伝える現代のアラブ文学は多様な貌をもつ。しかし各作品に通奏低音のように響く、ひとつの祈念がある。 「「かつて、そこで」起きた、もはやとりかえしのつかない、痛みに満ちた出来事の記憶。もう帰ってはこない人々。[…]作家は、頭蓋骨に穿たれた二つの眼窩に湛えられた深い闇からこの世界を幻視し、彼岸と此岸のあわいで、起こらなかったけれども、もしかしたら起こりえたかもしれない未来
アラブ、祈りとしての文学 [著]岡真理[掲載]2009年2月8日[評者]鴻巣友季子(翻訳家)■苦難の地で小説が書かれる意味 アフリカの子供たちが餓死している時に己の文学は無力だと、かつてサルトルは語った。本書はそれへの応答の書とも言えよう。難民問題や戦闘の続くアラブの地で、著者は人の生き死にを目の当たりにしながら文学の力を考え、パレスチナ、レバノン、エジプト、アルジェリアなどの現代作家を丹念に紹介する。 あるアウシュビッツ体験記にこんな場面がある。彼がダンテの『神曲』を語り聞かせると、それを聴いた親友が一瞬生の輝きを取り戻す。友は死を免れなかったが、『神曲』は二人にとって魂の滋養になったはずだと著者は言う。人が人であるために。人間性の「壊死(えし)」を止めるために。文学などで命を救えない局面にいる人こそ、その魂は文学を必要とするのだ、と。ところが小説とは常に「最後にくるもの」であり、対象と
匿名ダイアリーで、「女性器切除」の話題がブックマークを集めている。 「女性器切除」 http://anond.hatelabo.jp/20090923003429 この記事によれば、勝間和代が「クーリエジャポン」で「女性器切除」の話題を紹介しているようだ。そちらがどのような記述になっているのか、まだ確認できていないが、少なくともこの匿名ダイアリーの記事は問題があるように思うので、フォローを書いておく。 ネットで検索しても、「女性器切除」を廃絶する運動の記事が多い。虐げられた女性に対する同情と、そうする男性に対する怒りから、今すぐ「女性器切除を廃絶すべき」だという思いに駆られるかもしれない。第三世界では、いまだ古い掟にムスリム女性が縛られ、犠牲になっているという議論が始まるかもしれない。 だけど、ちょっと待って。これは、フェミニズムの中で、大きな議論を巻き起こした問題なのだ。この問題をいち早
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