「結局のところ」、先生の仕事を語ることはもとより、単に先生を話題にすることさえも私にはその権限も正当性も能力もないので、烏滸がましくも二三のくだらない思い出話で読者に甘んじてもらおうと思います。冒頭から場違いの「結局のところ」とは、先生のフランス語の口癖をわざともじって使わせていただいただけです。フランス語で「結局のところ」を言うためにはいろいろな表現がありますが、お付き合いをさせていただいて間もなく先生の口から良く「Après tout...」という言葉がこぼれることに気付きました。別に凝った表現ではありませんが、日本の方の口からこの表現を聞くことは小生は外に例を知りません。そもそも先生のフランス語というのは、外の日本人と比べて桁違いのうまさがありました(そう言ってしまってたくさんの友人の顰蹙を買うことは覚悟済みですが、本当にそう思いますので仕方がありません)。難解な語彙、複雑な構文を名
*『ふらんす』2018年6月号から、特集の一部をご紹介します。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 彫刻家カミーユ・クローデルの弟にして、フランスを代表する詩人・劇作家……。 駐日フランス大使として両国の絆を深めるのに尽力した、ポール・クローデルを特集します。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 「「共同出生」を目指した詩人大使ポール・クローデル」 中條忍 はじめに 表題に記した「共同出生」とは?と首をかしげる方もおられると思う。原語はco
僕は或早春の夜、富士見町の細川侯の舞台へ金春会(こんぱるかい)の能を見に出かけた。と云ふよりも寧(むし)ろ桜間金太郎氏の「隅田川」を見に出かけたのである。 僕の桟敷(さじき)へ通つたのは「花筐(はながたみ)」か何かの済んだ後、「隅田川」の始まらない前のことである。僕は如何なる芝居を見ても、土間桟敷に満ちた看客よりも面白い芝居に出会つたことはない。尤(もつと)も僕の友達の書いた、新らしい芝居は例外である。さう云ふ芝居を見る時には、大抵看客などは忘れてしまふ。なぜと云へば同じ桝に彼自身の芝居を見てゐる作者は看客よりも面白い見ものだからである。――が、そんなことはどうでも好い。兎に角芝居の看客は芝居よりも面白いのを常としてゐる。能もやはりこの例に洩れない。この頃の能の看客はお嬢さんを大勢まじへてゐる。その又お嬢さんは一人残らず、小さい欠伸(あくび)を噛み殺しながら、荘厳なる威儀を正してゐる。おま
Annonce des manifestations destinées à célébrer le 150e anniversaire de la naissance de Paul Claudel 今年はポール・クローデルの生誕150年です 1921年から1927年まで駐日フランス大使を勤めた ポール・クローデル(1868-1955)は、 日仏文化交流の基礎を築いた有能な外交官であり、 20世紀フランスを代表する劇作家にして詩人、 そして熱心なカトリック信者でもありました。 クローデルにとって日本は「偉大な書物」であり、 「耳を傾ける」国でした。俳句風の短詩を綴り、 それを墨書した『百扇帖』をはじめとする短詩集を刊行したのも、 能や歌舞伎や文楽に親しみ、 「私の能」と自ら呼ぶ舞踊劇『女と影』を執筆して初演したのも、 畢生の大作『繻子の靴』を完成したのも、 日仏の文化交流の拠点となってい
Annonce des manifestations destinées à célébrer le 150e anniversaire de la naissance de Paul Claudel ポール・クローデル生誕150周年記念行事一覧 ●能上演 「新作能『面影』——ポール・クローデル『女と影』による——」 国立能楽堂 2018年2月4日(日)15時開場、16時開演 クローデルが滞日中に5代目中村福助主宰の羽衣会のために作った『女と影』を金剛永謹が能に翻案。武士、先妻の亡霊(影)、後妻を登場させ、彼らの闇に交差する内面のこだまを形象化した作品の上演。PDF 監修:金剛 永謹 詞章監修:冷泉 貴美子、有松 遼一 囃子監修:大倉 源次郎 演者・囃子:金剛 永謹、金剛 龍謹、福王 和幸、河村 大、大倉 源次郎、杉 市和 ●文学展 「生誕150年記念 詩人大使ポール・クローデルと日本展」
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先日読んだマブソン青眼さんの 「青眼句日記」 の中に、芸術 (俳句) に生きるのか実学に生きるのかに悩む高校生に向けて語りかけているところがある。そこで彼が 「フランスの大詩人」 というポール・クローデルの人生を引き合いに出している。彼の語るクローデルの人生を見てみたい。 Paul Claudel (6 août 1868 - 23 février 1955) 1868年、北フランスの地方公務員の長男として生まれ幼い頃から詩を作るが、中学生になって進路について悩み始める。ポールの5歳年上の姉はかの有名なカミーユ・クローデルで、20歳代からパリの彫刻界の新星として活躍していた。姉の懇請により彼も上京し、パリの名門高校に入学する。マラルメの文学サロンに顔を出したり、姉に浮世絵を見せて貰ったりしているうちに、芸術家として立ちたいと思うようになる。 しかし、彼はパリ大学の政治学部に進む。その頃漂白
2. ポール・クローデル―詩人と大使 フランスの劇作家・詩人ポール・クローデル(1868-1955)が駐日大使として着任したのは、大正10(1921)年11月のことであった。クローデルは、外交官試験に首席で合格し、後には駐米大使まで務めた有能な外交官であったが、彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の弟子として有名な姉カミーユ(1864-1943)の影響で、幼い頃から日本への憧れをもっていた。外交官になることは、日本へ行くための近道と考えたという。昭和2(1927)年4月に駐米大使に転出するまで、休暇帰国を挟んで約4年半滞日し、政財界の要人や文化人らと交遊した。その間、関東大震災を経験、日仏会館の開設に尽力し、代表作となる戯曲『繻子の靴』を書き上げている。カトリック詩人として知られるクローデルであるが、日本人の感性を深く理解し、俳句や都都逸風の短詩作品や日本文化を主題とした随筆集
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