夏目漱石が明治33(1900)年、英国留学を命じられた辞令書が、都内で開かれた古書展のオークション「明治古典会七夕古書大入札会」に出品された。これまで文面は門下生の小宮豊隆著『夏目漱石』などで紹介されていたが、実物は知られていなかった。 漱石は当時、熊本の第五高等学校で教えていた。辞令書(6月1…
夏目漱石が明治33(1900)年、英国留学を命じられた辞令書が、都内で開かれた古書展のオークション「明治古典会七夕古書大入札会」に出品された。これまで文面は門下生の小宮豊隆著『夏目漱石』などで紹介されていたが、実物は知られていなかった。 漱石は当時、熊本の第五高等学校で教えていた。辞令書(6月1…
Natsume Sôseki et Maupassant 夏目漱石(1867-1916)とモーパッサンの関係はいたって簡明に要約できる。すなわち「嫌い」だった。あるいは、まったく「馬が合わなかった」。――とても簡単だ。 漱石は蔵書に感想を書き込む習慣を持っていたが、漱石山房蔵書にはモーパッサンの英訳が3冊存在する(他に、仏語原書が2冊、ただし書き込みは無い)。 百聞は一見に如かずということで、まずは漱石の寸評を読んでみることにしよう。河盛好蔵に倣って(「モーパッサン盛衰記(二)」、『文学界』、46(7)、1992年、p. 242-248. )以下に引用する。 なお出典は新版の『漱石全集』第27巻、岩波書店、1997年、p. 208-213. 944 Maupassant (G. de) : A Woman's Soul (The Lotus Library. 1907) (前扉および見返し
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東京藝術大学大学美術館准教授 古田 亮 明治の文豪、夏目漱石と言えば『坊っちゃん』や『心』といった小説がよく知られています。今年は、『心』の刊行からちょうど100年を迎えますが、漱石文学は世代を超えて読み継がれ、色あせるどころか益々多様な読み方がなされているように思われます。興味深いことに、漱石文学には古今東西の美術作品、画家、彫刻家たちが登場します。漱石と美術との関係は意外に深く、また複雑ですが、文学における絵画イメージの役割を考えるうえで、漱石文学ほど魅力的なものはほかにありません。 東京に出てきた大学生小川三四郎は、美禰子という女性に出会い、魅了されていきます。漱石は、美禰子の容姿を伝えるにあたって、フランスの画家ジャン=バティスト・グルーズの描く少女のように「ヴォラプチュアス」である、つまり官能的であると表現しました。 【グルーズ 少女】 日本ではさほど有名ではないこの画家の作
漱石の作家デビューは『吾輩は猫である』であり、第一回が「ホトトギス」明治38(1905)年1月に掲載され、その反響の大きさ故、続篇を書き連載ものとなって行ったことは、あまりにも有名で、いまさら敢えて取り上げることでもないだろう。 周知のことであるが、「猫伝」として短編を書いた漱石は、その原稿を高浜虚子にみせると、大幅に添削が入り、タイトルも冒頭の言葉、「吾輩は猫である」からとられた。当時参加していた山会の席で、短編としての「猫」を高浜虚子が朗読すると、大変評判が良かったらしい。 吾輩は猫である (岩波文庫) 作者: 夏目漱石出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1990/04/16メディア: 文庫購入: 8人 クリック: 133回この商品を含むブログ (79件) を見る しかし、漱石は、同じ年の『帝国文学』1月号に「倫敦塔」を、『學燈』1月号に「カーライル博物館」をほぼ同時に掲載しており、
http://www.shohakusha.com/detail.php?id=a9784775401767 それを「愛嬌」と呼ぶかどうかは別として、相手を構えさせない disarming な亀井先生の語り術。内容的にも新書のようにサラリと読める。題名通り、「小説家」に先立つ「英文学者漱石」の姿を、学生~留学~講師時代を通してただ追うのであって、言い方によっては「それだけ」の本なのだが、これに僕は、自己の根底をぐらつかせてしまった。 垣間見せてもらったのは、東大英文科の始まりの姿である。これが新鮮だった。この歳まで、東大英文科に、始まりがあるということを考えずにいた自分のバカが露呈された。 そのバカは、自分の出身学科を、永遠なる権威のように考えてきたのだ。 そしてその「権威」に自分を委ねてしまったらお終いだからと、オレは堕ちねえぞ、というパフォーマンスばかりやって生きてきたのだった
スランプを脱する薬が欲しい - 備忘録の集積 id:keiseiryoku さんのエントリを読んで、小説に書かれている視点の変化について興味をもったので、一つ記事を書いてみることにしたい。(ただし、創作上の助言などのつもりではないので、あてにしないでいただきたい。) で、またしても夏目漱石である。 漱石の初期の主要な小説、『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』、『草枕』 はいずれも 《吾輩》、《おれ》、《余》 という一人称で書かれている。主人公自身が語り手であって、『吾輩』 のように、主人公が死ぬとストーリーがそこで終わってしまうケースもある。つまり、主人公以外の視点が入りこむことが全くないのである。 これが中期の小説、『三四郎』、『それから』、『門』 あたりになるとだいぶ変わってくる。三作とも三人称で書かれている作品だが、これらはどのような視点で描かれているのだろうか。 三四郎はぼんやりして
中勘助は明治18年に東京で生まれ、昭和40年に没した作家・詩人である。(谷崎潤一郎より一つ年上であり、谷崎と同年に亡くなった人だ。)彼は東京帝国大学英文学科で夏目漱石の講義を受け、のちに国文学科に転じた。明治44年に執筆した 『銀の匙』(前篇) が漱石に注目され、同作は東京朝日新聞に連載された。大正2年に書かれた同後篇も同じく新聞に連載された。*1 本作は作者の自伝的小説である。幼少時代の回想がほとんどを占めており、子供の頃の出来事が子供の頃の視線で、時に美しく、時に醜く描かれている。前篇の前半は 「よくこんな細かいことを覚えてるなあ」 と思わせるようなエピソードが順不同に並べられているが、小学校に上がるあたりから次第に主人公 《私》 の成長過程がストーリーの軸になって行く。ときどき 《私》 が幼い頃の出来事を回想する場面があるのだが、「あっ!」 と声を出して驚いてしまうほど効果的な挿入の
「まあ、緩(ゆっ)くり話しましょう」と云って、巻烟草に火を点けた。三千代の顔は返事を延ばされる度に悪くなった。 雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨の為に、雨の持ち来す音の為に、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立のまま、白百合の香(か)の中に封じ込められた。 「先刻(さっき)表へ出て、あの花を買って来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随(つ)いて室の中を一回(ひとまわり)した。その後で三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。 夏目漱石 『それから』 十四 夏目漱石 『それから』 (明治42年)で、主人公代助が三千代に告白する、最もロマンティックな場面である。 それが、谷崎潤一郎 『熱風に吹かれて』 (大正2年)では以下のようになる。同じく、主人公輝雄が友人の恋人英子に告白する場面である。 「仕方がない、そんな
中央公論社の「潤一郎ラビリンス」の洒落です。ハイ。 ついでに、わたしはこの「ラビリンス」と「ジュンイチロウ」のもつ「ン」の重なりが気持ちよい。 さらには「迷宮」の語の妖しい魅力と、それが小説の「構造的美観(建築的美観)」というものに執着した谷崎を天才ダイダロスに喩えるようで、そしてまたそこに彷徨うミノタウロスの生死の悲劇的美しさをも思わせて、とてもとっても大好きなのです(実は、タニザキこのシリーズでは読んでないのだ。いつか買うぞ!) さて。 あの大タニザキに「俺おま」を感じてやまない今日この頃、 みなさま、いかがおすごしでしょうか? (って、わたしってば、なにスットボケようとしてるんですか!?) なにを言いたいかと申しますと、 あまりにも、あまりにも、 谷崎の「饒舌録」と「藝術一家言」が面白いので、 「みんな、読んで~~~~~~~っ!!」 ってお願いしたい、ただそれだけです。 ええ、ほんと
――自分が本当は何がしたいのかわからない。 前連載(「うつ」にまつわる24の誤解)の第16回でも取り上げましたが、現代の「うつ」において、このような悩みが浮上してくるケースが非常に多くなってきています。 今の社会では、幼い頃から「やらなければならないこと」を休みなく課せられてくることが多く、なかなか、ゆっくりと「やりたいこと」に思いを巡らす余裕が与えられていません。 そのうえ、外から「与えられる」膨大な知識を次々に記憶し、「与えられた」方法で要領よく情報処理することを求められるために、人々の多くは、「自分は何をしたいのか?」「これは本当に自分がやりたいことなのか?」といった問いを持つこと自体に、不慣れになってしまっているようです。 しかしながら、このように「主体」を見失ってしまったという悩みは、現代人のみに見られる新しいテーマというわけではありません。これは、近代的自我の目覚め、つま
鴎外と漱石・その心性比較 【1】二人の悪妻 *鴎外の妻茂子* 鴎外の二番目の妻茂子は、美貌な女にありがちな「自分の外に出ることのできない」人間だった。妙に生真面目な自己感情の中に閉じこもって、外の世界には殆ど興味を示さなかったらしい。草花を見ても美しいとも何とも感じなかったし、家の中の雰囲気を和らげようとして鴎外が冗談を言っても、同調するどころか不真面目だとしてひどく嫌っていたという。 鴎外が再婚したとき、鴎外は41才、茂子は23才だった。鴎外はこの若く美しい妻の生真面目なところも、好き嫌いの激しいところも、頑ななほど正直なところも、すべて受け入れて、あたかも実の娘に対するような愛情を示していた。日露戦争中、鴎外が茂子に出したおびただしい手紙を読むと、彼が茂子を頑是無い子供のように扱っていたことが分かる。 夫婦の寝室に寝ている幼い子供が、布団から身を乗り出したり便所に行きたがったりしたとき
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