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カッシーラーに関するflorentineのブックマーク (6)

  • 「新カント派と自由主義の凋落――カッシーラーを中心に」 - D's BLOG

    『現象学と政治――20世紀ドイツ精神史研究』行人社、1994、第2章。初出は『神戸法学雑誌』40巻4号(1991.3)。『啓蒙主義の哲学』は1932年という非常にややこしい時期の作品である、ということをちょっと復習。 まずは問題の所在。宮田光雄が指摘するように、カッシーラーは、「政治の領域においては……はっきりと理性の支配を主張する合理主義の立場」をとっているが、面倒なことに「神話」については、「民族学者の見地からは神話が人間文化の発展における質的要素をなすというロマン主義的見解にくみするとともに、批判哲学者としては、基的に非合理・魔力的な神話の力と闘う合理主義者として立っているようにみえる」という非常にアンビヴァレントな態度をとっている。乱暴にいえば、カッシーラーは、理性を讃える新カント派自由主義者としての立ち位置に執着するくせに、「神話」についてはときどきロマン主義的な態度をとって

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  • エルンスト・カッシーラー | みすず書房

    1874-1945。ドイツの哲学者。旧ドイツ領ブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)に生まれる。ヘルマン・コーエンの下でカント哲学を学び、マールブルク学派の一人に数えあげられるが、近代認識論史の大著である『近代の哲学と科学における認識問題』(1-3巻、1906-20、4巻、1950〔邦訳『認識問題』全4巻・5冊〕)や『実体概念と関数概念』(1910)で独自の立場を確立。ベルリン大学私講師をへて1919年新設ハンブルク大学教授に着任。さらに『シンボル形式の哲学』(1923-29)で言語・神話・宗教・芸術などを包括する文化哲学の体系をつくりあげた。1933年、ナチスの支配と同時に亡命を余儀なくされ、オクスフォードからスウェーデンをへて、1941年以後アメリカで活躍する。1945年4月、ニューヨークで歿。著書は他に『自由と形式』(1916)『カントの生涯と学説』(1918)『ルネサンス哲学におけ

  • 象徴形式の形而上学 | 法政大学出版局

    四六判 / 476ページ / 上製 / 価格 6,050円 (消費税 550円) ISBN978-4-588-00941-9 C3310 [2010年07月 刊行] E.カッシーラー(カッシーラー エルンスト)ドイツの哲学者.1874年に生まれる.ベルリン大学で文学と哲学を学ぶ.マールブルク大学でコーヘンやパウル・ナトルプに学び,新カント派のマールブルク学派の中心的存在のひとりとなる.ベルリン大学の私講師(Privatdozent)を経て,1919年に新設されたハンブルク大学の教授を亡命する1933年まで勤めた.この間,主著『象徴形式の哲学』(1923-1929年)によって,言語,神話,科学など人間の精神的活動を包括する独自の文化哲学の体系を打ち立てた.ナチス政権成立とともにイギリスに移り,オックスフォード大学講師(〜1935年)となる.のちスウェーデンのイェーテボリ大学教授(〜1940年

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  • 【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト

    日頃より楽天のサービスをご利用いただきましてありがとうございます。 サービスをご利用いただいておりますところ大変申し訳ございませんが、現在、緊急メンテナンスを行わせていただいております。 お客様には、緊急のメンテナンスにより、ご迷惑をおかけしており、誠に申し訳ございません。 メンテナンスが終了次第、サービスを復旧いたしますので、 今しばらくお待ちいただけますよう、お願い申し上げます。

  • エルンスト・カッシーラー - Wikipedia

    エルンスト・カッシーラー(Ernst Cassirer、1874年7月28日 - 1945年4月13日)は、ユダヤ系のドイツの哲学者、思想史家。新カント派に属し、“知識の現象学”を基礎にしながら、シンボル=象徴体系としての「文化」に関する壮大な哲学を展開した。 生涯[編集] シュレージエンのブレスラウ(現在のポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ系の家庭に生まれる。ベルリン大学で文学と哲学を学ぶ。マールブルク大学でコーエンやパウル・ナトルプの下で学ぶ。1899年に博士論文(『デカルト論』)をコーエンのもとに提出した。 1903年から、ベルリン大学の私講師(Privatdozent)を勤めながら、哲学、科学、理論的思考へと考察を集中させていった。1906年に『認識問題』で教授資格申請。審査にはヴィルヘルム・ディルタイとアロイス・リールがあたった。1907年には『認識問題』第2巻におけるカント解釈に

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